姫野カオルコ 愛は勝つ、もんか 目 次 ㈵ オトコ嫌い My dream comes true  男のモノサシは「情緒」でできている  オイシイとこ取りする女  自意識の紆余曲折  おじさんは助平でなきゃ 「全国盆踊り愛好会」会員募集中  ちびまる子ちゃんの意地悪  売春を国営化せよ  恋愛下手になろう  ふるさとの神様  王子様はどこにいるのだろうか ㈼ ひとり上手 Call me  いたずら電話魔のナゾ  キャッチホンのお待たせ音はむなしい  ニューヨーカーの皮をかぶった関西人  ただ、あなたの声が聞きたくて  公衆電話は頼りになるお姉さん  電話でKISS  奇妙な切望  Callの回数≠愛情の深さ  便利で不便なファックス  疑惑の電話  土曜と日曜は電話定休日 「御会談」にラブホテルはいかが?  留守録の理想的な使い方 ㈽ 恋愛の真実 Love and sex  想いが届く、明日を信じちゃいけないよ  モテル女の〓カラクリ  誰もがかかる「せんせい病」って?  乙女心のいやらしさ 「あなたしか見えない」タイプが一番強い  男と女が、突然フランクな言葉遣いになる理由  亭主関白にあこがれるシアワセ  恋の奴隷になってみたい  ヒメノ版「小指の想い出」  不倫の恋におちいる心理 「別れ」でわかる、男と女のちがい  冷めている人間ほど恋に夢中になる  恋愛と教養 ㈵ オトコ嫌い My dream comes true 男のモノサシは「情緒」でできている  ほんとにもう女ってやつは非論理的で感情的で「好き・嫌いのモノサシ」でものごとを判断するからたまらない。  と、よく男性は言う。  だからそのご期待にお応えしようと思う。男性がそう思っているなら、その期待にお応えしてめいっぱい女っぽく非論理的にならなければ。それが関西人のサービス精神というものだ。  ではサービスをはじめよう。私は『オリビアを聴きながら』という歌が大嫌いである。正確に言えば、  カラオケのある店できく『オリビアを聴きながら』が大嫌い  ということになる。なぜなら私はこの歌をカラオケのある店でしかきいたことがなく、本来の歌手でのものはきいたことがない。その点はおことわりしておく……と、このあたり尾崎亜美と杏里《あんり》のごきげんをうかがってるっぽい小心さが、また関西人らしくていいのだ。  で、『オリビアを聴きながら』だが、そもそも、この、オリビア、というのはオリビア・ニュートン・ジョンのことであろう。私はこいつがまた嫌いなのだ。  日本の漁村にイルカが大量に泳ぎ込んできたとき、漁師たちはしかたなくイルカを殺した。なんといってもイルカはあの可愛《かわい》い顔に似合わず自分の体重の倍の魚を食べるのだ。漁師たちはおもしろがってイルカを殺したわけではないだろうに、ニュートン・ジョンは 「イルカを殺すような国では歌いません」  と言って、日本でのコンサートを中止した。中止会見のときに毛皮のコートを着て。  これは興行スジでは有名な話であるが、私がニュートン・ジョンを嫌う理由はこれではない。  真相は高校時代に遡《さかのぼ》る。  当時、ニュートン・ジョンとスージー・クアトロが人気を二分していた。  おおむね女子は少年顔のクアトロを支持し、男子はぶりっこ顔のニュートン・ジョンを支持した。当然、私はクアトロ派だった。そして体育の女教師が、昔の少女漫画級にえこひいきのひどい先生で、その先生の顔が、ニュートン・ジョンが肥満したらこうなるだろうなという顔をしていたために輪をかけてクアトロを支持した。  身長が低いのを気にして特製ヒールの靴をはいているスージー・クアトロがいじらしかった。大学教授の娘で男の子好きするわかりやすいぶりっこ顔をしたニュートン・ジョンなんか誰が味方してやるか、と、女なので非論理的なので子宮でものを考えるのでそう思っていた。こんな青春を送った私が、 ♪オリビアはさびしい心  なぐさめてくれるから〜♪  などという歌にどうして共感できよう。できるはずがない。  だいたいこの歌で一番ハラがたつのは、 ♪夜ふけの電話 あなたでしょ♪  という部分である。 「なんという傲慢《ごうまん》な!」  そう思われてならない。  ただのまちがい電話かもしれないではないか。ただのイタズラ電話かもしれないではないか。はたまた、急用でかけてきている会社の同僚からかもしれないではないか。それをなんで、 ♪あなたでしょ♪  などと断言ができるのだ、断言が! 「別れたあとでも男が自分に未練があると信じて疑わないこのゆるぎない自信は、いったいどこから来るのかっ!」  と、思わずグラスの酒をレーザー画面にぶっかけたくなるほどハラがたつ。 「おい、世の中にはなあ、片思いとフラれの連続のロマンス人生を歩んできている女だっていることに、少しは気くばりしたらどうなんだよ。このアマ!」  と、レーザー機械に蹴《け》りを入れたくなる。蹴りを入れるアクションをしている私に追い打ちをかけるがごとく、 ♪疲れ果てた あなた〜♪  と、しっとりとしたメロディで、 ♪私の、まぼろしを愛したの♪  と、きやがるではないか。  まぼろしを愛したのよ、だと? まぼろしでも愛してもらえたらいいではないか。恋愛の本質はまぼろしなんだから。なにが不満なのだ。この、農民の苦しみを知らずに「まあ、ごはんがないならお菓子を食べればいいのに」と言ったマリー・アントワネット女めが。  その上、二番ときたらアントワネットどころか、デュバリュー夫人である。 ♪誕生日にはカトレアを忘れない  やさしい人だったみたい♪  と、きた。 「誕生日にはカトレアを忘れないやさしい人だった」  じゃないんだぞ。 「やさしい人だったみたい」  なのだ。 「やさしい人だったみたい」  と「みたい」が付いているのだ。やさしい人だったみたい。この「みたい」ってのは、おい、こら何のつもりだ、この女。この「みたい」に、こいつの傲岸《ごうがん》・高飛車な精神が結集されているではないか。  もう私は革命を起こしてベルサイユ宮殿に爆弾を投げたい気分である。毎年カトレアをもらっといて、なにが「やさしい人だったみたい」なんだよ! ギロチンにかけられてしまえ!  こんな女の傲慢さあふるる、あふれてびしょびしょの歌なのに、男性とカラオケに行くと頻繁に彼らは、 「姫野さん、『オリビアを聴きながら』は? ぼく、あの歌好きなんだ」  と、私に勧めてくる。  これは曲の静かなムードにごまかされているのだ。たんなるムードに。  ああ、男っていうのはほんとに「情緒のモノサシ」で、ものごとを判断してキンタマでものを考えるんですね。  んでも、この歌のオリビアが、オリビア・ニュートン・ジョンではなくてオリビア・ハッセーのことだったらなかなかおもしろい歌だ。  歌中の女性がジャスミンティーを飲みながら『ロミオとジュリエット』のサントラ盤なんかではなく、ぐっとおたくに『失われた地平線』とか『サマータイム・キラー』のサントラ盤をきいてたりしたら。『サイコ3』にも出てるぞ、オリビアは。 オイシイとこ取りする女  柴門《さいもん》ふみさんはうまい。読ませるストーリー運びのツボを心得ていらっしゃる。  でも、この本は『ぱふ』ではないから、このページも漫画評論ではないのでよかったから、私も意気揚々と、 「私は関口さとみが嫌いだ。こいつー、嫌いだよ」  と言うことができてもっとよかった。  関口さとみ。『東京ラブストーリー』で最終的にカンチと結ばれる女。TVでいうと有森也実が演じていた女。  関口さとみ。水野晴郎の口調をまねて、 「いやあ、んっとに、さとみって嫌いですね」  と思っている人は世の中に多いと思う。 「いったいなんなのよ、あの女!」  と思っている人もいるかもしれない。 「ヘドが出るぜ」  と思っている人もいるだろう。 「こんなヤツ、ばってんをつけてしまえ」  と『ビッグ・コミック・スピリッツ』の関口さとみの顔に赤マジックで×をつけていた人もいるにちがいない。  こういう過激派にくらべたら、私は温厚に嫌っているほうだ。  なぜ関口さとみはこんなに嫌われるのか。  TVの場合は、ちとブが悪かった。当時、人気絶頂の鈴木保奈美扮する赤名リカの恋仇《こいがたき》になってしまったのだから。  しかし、保奈美ファンだから関口さとみを嫌っているのはニセモノであるからほっとかなくてはならない。  私のように温厚派といえどもホンモノの関口嫌いは、TVではなく漫画連載のときから嫌っている。  まず、勤務先が気にいらん。保育園。これがたまらん。現実の保母さんはたいへんな仕事であると思います。そういうこととはべつにして、たまらん。「子供が大好き」とアッピールする女にロクな女はおらん。あ、韻をふんでる。たまらん。おらん。 『枕《まくらの》 草子《そうし》』にもあるように子供も子猫も子ライオンも、小さきものはみな可愛い、のはあたりまえではないか。子供は可愛い。それをなんでわざわざ、 「私、子供が大好きなの」  と、アッピールせにゃならん。あ、また韻をふんでる。たまらん。おらん。ならん。  関口さとみが作中でアッピールしていたシーンがあった記憶はないが、勤務先がアッピールしている。だからたまらん。  カンチいわく、 「高校のときさ、関口とジュース飲んでたら、あいつ咳《せき》こんだんだよ。どうしたんだ、って訊《き》いたらジュースについてたサクランボの種を呑《の》みこみきれずに咳こんだんだって。種を口から出すのが恥ずかしくて呑みこもうとしたんだって。俺《おれ》、あいつのそういうとこが好きなんだよな」  だって。私はあいつのそういうとこが嫌いだ。  好きな人の前で種を口から出すのは恥ずかしいと思う自分が恥ずかしい。  と、本当に恥を知っている者なら感じるはずだ。自分を美化しようとしている媚《こび》に気づいて自分を恥じるはずだ。それが慎み深さというものではないか。慎みのない奴《やつ》め。  慎みがないうえに、 「種を呑みこめなかったの」  と、あとで種明かしをしてみせ(期せずしてダジャレになってしまったが)るところが、媚のテクニックを先天的に身につけているようで不潔。  チャチな媚にひっかかるカンチもカンチだが、チャチな媚を無意識に使えるぶ厚い神経を持ってるならサクランボの種くらい呑みこまんかい。あんな小さなもんで咳こんでたとしたらプレイボーイの三上と同棲《どうせい》していたときはフェラチオは断固拒否してたんだろうな、やってたんなら承知しねえぜ。  んで、いや、きっとオズオズした態度をとりつつもやっていたにちがいない、と想像させるところが関口さとみにはあって、そこも嫌いだ。あ、韻じゃないんですが、フェラチオってべつに呑みこむわけじゃないんですよね、失礼しました。でも、八重歯でペニスを切断されて呑みこまれてしまったら、という想像は男性には恐怖でしょうね。でもでも関口さとみの正体ってソレですよ。  二枚目の三上と同棲したのちにやさしく誠実なカンチをリカから奪って結婚。これじゃオイシイとこはみんな関口さとみがかっさらってってる。そして彼女が「オイシイとこ取り」していったと、男は最後まで気づかない。  結局、こういうタイプが日本ではトクをするという教訓のような奴である。嫌いだ。  ちなみに私は長崎さんが好きでした。カンチが長崎さんと結婚して、三上がリカと結婚して、関口さとみは八一と結婚すりゃよかったのに。そしたら史上初・作品ワープ結末になっておもしろかったのにね。 〈注〉八一=柳沢きみおの漫画、『妻をめとらば』のだらしない甲斐性《かいしよう》なしの主人公。同時期同誌連載。 自意識の紆余曲折  カラオケで嫌われる人の双璧《そうへき》、源平、伯仲、早慶、リンリンランランといえば、 『マイウェイ』を歌う人と『昴《すばる》』を歌う人、である。  この説にならって私も嫌われ者にならぬよう注意していたのだが、心境が変化した。  先日、友人の結婚お祝い会があった。女性は新婦も含めて、  デートのときに着る程度の洋服、  であり、男性も新郎を含めて同程度の、  ラフな洋服、  であった。親戚《しんせき》以外の知人友人が集まるお祝い会なのだった。  そのなかに一人だけ、  モーニングに白いネクタイ、  をした人がいた。  年齢は四十代後半で文明開化調のヘアスタイル。  食事もすすみ酒のすすんだあたりで一同がやっとなごみはじめた。  全員、新郎新婦の友人であるにはちがいないが、互い互いは初対面なのである。おしゃべりが弾みだすには、時間が必要だったし、弾んだところで、初対面同士のあたりさわりのないおしゃべりである。  そういうなかでカラオケ・タイムに突入してしまった。モーニングの男性は歌った。『昴』。  もしかしたら「カラオケ・タイムの機微をみきわめないやつ」の典型になっているのかもしれない。けれども、私は彼を、 「きっといい人なんだろうなあ」  と、思った。  いったいカラオケというもの、私はながいあいだ歌うことができなかった。 「人前で歌を歌うなどそんな大胆な、勇気のいること……」  この理由を玄徳として、 「知ってる歌がアニメと賛美歌しかない」 「私の声のキーは一般女声より低いからカラオケ演奏機にあわせられない」  この二つの理由が関羽と張飛になって、しっかと私を「歌わない三国志」姿勢をとらせていた。  カラオケに行かない人というのは、多かれ少なかれ、似たような理由ではなかろうか。行く人だって、お酒を飲んで「三国志」姿勢がゆるんではじめて行けるのだし。  私は原則的にさほど酒が飲めない。ある日、たまたまとても体調がいいときがあってけっこう飲んだ。そのときにはじめて歌った。まだカラオケBOXが世に登場する前のころのことである。  それはもう足がふるえるくらい緊張して歌った。そしてすごくヘタだった。やっぱり歌うんじゃなかったと後悔もした。  ところが席にもどると、だれひとりとして私が何を歌ったかなどおぼえていないのだ。「え、歌ったっけ?」 「なに歌った? 気がつかなかった」  てなもんである。  私はそこで悟った。 「なーんだ。カラオケって、だれも他人の歌なんかきいてないんだ」  と。 「なーんだ。だれもきいてなんかいないんだ。歌うのが恥ずかしいって、そりゃ、裏返しにしたら歌がそこそこに上手いと思われたいって奢《おご》った心理じゃないか。なーんだ、そうだったのか」  と。  となれば、私の「歌わない三国志」姿勢などガラガラ崩壊。  なんといっても、私の仕事は毎日一人っきりであり、一日中、ひとことも声を出さない日すらザラにある。こういう仕事の者にとって、ならば、カラオケなどかっこうのストレス発散の場。かっこうの「声の出しだめ」の場。 「歌う阿呆《あほう》に聞かない阿呆。同じ阿呆なら歌わにゃそんそん」  この精神領域に達し、さらに精進して、最近は踊りまで踊っているのである。 「自分が自分を気にするほど他人は自分を気にしていない」  つくづく思う次第である。  こうした紆余曲折《うよきよくせつ》を経てようやく歌えるようになった私にくらべ、モーニングの男性はごく自然に歌える人なのである。まるで朝起きて顔を洗うかのように。ウケを狙《ねら》うとか計算するとかいったところが微塵《みじん》だにない、いわば、  天才型、  なのである。 「私が努力を重ねてできるようになったことを、あの子はあんなにもやすやすと……」  姫川亜弓が北島マヤを見る目つきで、私は『昴』を歌うモーニング男性を見ていた。  おとろえることを知らぬカラオケ・ブーム。みなさん、カラオケなど、好きなのをどんどん歌ってください。 『昴』と『マイウェイ』が、嫌われる関羽と張飛だなどといったって、しょせん関羽と張飛は家来。大将ではありません。ここはいっちょう『第九交響曲・最終楽章・歓喜の歌』を、ずばりドイツ語でがなりたてて嫌われものの玄徳になりましょう。 〈注〉姫川亜弓・北島マヤ=美内すずえ作の大河漫画『ガラスの仮面』の登場人物。演劇界のサラブレッド・亜弓と天性の女優・マヤの物語。 おじさんは助平でなきゃ 「いやらしいおじさん!」  電車のなかで女子高校生が言った。 「ほんとー。あたしの肩、さわってった」  女子高校生の連れの女子高校生も言った。  彼女たちは四人ぐらいのグループでドアのそばで陣を作っていた。肩と肩をよせあい、ちょうどサークルを描くように電車ドア前のスペースを占領していた。 「いやらしい!」  と、女子高校生に言われたおじさんは、ドアが開いたとき、彼女たちのサークルをぶっちぎるように前進し、車内へと乗り込んで来た男性だった。  私は座席にすわっていた。  私の目からすると、おじさんは、 「ドアが開いたときにはちゃんとドア前を空けないか、こいつら」  と、ヤングの公衆エチケットの無さに怒っているように見受けられた。  私は女だが「可愛《かわい》い少女」というのが大好きである(「熟した美しい女」というのも大好きだが)。その私にさえ、おじさんのほうが正しくて、女子高校生グループのほうがまちがっているように見えた。  エチケットを欠いていたかしらとは、つゆにも思わず、 「あたしの肩をさわっていった」  としか思えないみなぎる自信に対し、疑問を感じたのだ。  ヤングの無礼さに怒ったおじさんは、なかなか奇特な人である。  最近のおじさんは、なんであんなにナイーブなのか。 「おじさんのこおゆうとこがイヤ」みたいな意見にきまじめに反省しすぎているような気がしてならない。  おじさん=35歳以上の男性と、とりあえず定義すれば、おしゃれなおじさん、品のいいおじさん、博識なおじさん、卑しいおじさん、ビンボ臭いおじさん、だらしないおじさん、などなど、ありとあらゆるおじさんがいるわけだから、自分が「おじさんという年齢」にあるというだけで、そんなにナイーブになる必要はないのに。ときどき不必要なナイーブさにがっかりする。  少女とおじさん。  この組み合わせはそれなりに趣のある題材であって、古今東西の小説や詩、映画、絵画のモチーフになってきた。『ロリータ』『眼球|譚《たん》』『蒲団《ふとん》』『挽歌《ばんか》』『四十八歳の抵抗』『昼下がりの情事』『シベールの日曜日』などなど。  どの小説、どの詩、どの映画においても、少女は美しく魅惑的だった。  なぜなら、美しく魅惑的な少女というのは全員、次の3つの条件を満たしていたからである。  ㈰自分が少女であることを嫌悪している(=清純な美しさという点では、おそらくこの要素が最高峰)  ㈪自分が少女であることに自分で気づいていない(=少女という若さが、死を身近に感じはじめた年齢にある男にとり、無条件に輝かしい存在であることを、まったく知らない)  ㈫少女の外見をしているが、とうに一人前の女であることをちゃんと自覚して、計画的・知能的にこの状況を武器にしている(この場合は、少女というより女として魅力的)  この3条件からはずれる存在は、皆、醜いオバハンである。  だから、私の目には電車内で遭遇した女子高校生グループは、スーパーのレジで列に割り込むたくましいオバタリアンに映った。彼女らは、少女という年齢にだけよりかかって油断している、緊張感のない、ふてぶてしい物体だったから。  美しい少女保存のためにも、私はおじさんに言いたい。 「おじさん、頼むから助平でいてよ」  いやあねェ、おじさんは、みたいな意見にビクビクしないでと。  おじさんの年齢にあることをフルに活《い》かしてあぶらぎっていてほしい。 「ウヘヘヘ、この吸いつくような肌はどうじゃ、うひうひ」  と、ヨダレをたらしながらセックスしていてほしい。 「よいではないか。さあ、さあ、近うよれ。ほれ、ほれ」  と、ネチネチしていてほしい。  ただの少女ではなく、本物の美少女たちも、きっとおじさんならではのイヤラシサを希望していると思う。希望しているからこそ、 「おじさんって、しつこいのよね、ったく」  などと、自分で自分の性的欲望をごまかそうとしているのだから。  ところで、私はもうオバサンだが、オバサンに対してもボランティアでいいから助平でいてください。よろしくおねがいします。 「全国盆踊り愛好会」会員募集中  盆踊りに燃えている。  ディスコで踊るのも好きだが、流れてくる音楽が外国語であることが多いので、私は外国語はちんぷんかんぷんだから、シンパシィを持てない。  その点、盆踊りの曲は日本語の歌詞がついている。 ♪ちょいと〜 流し目〜♪  などと、ストレートにハートに迫ってくる。 ♪いきな〜 あなたの〜♪  なんてところで、太鼓がドドドンとくると下腹部にビートが伝わって、右の脳でも左の脳でも快感がストレートである。  住んでいる町の盆踊り大会にはもちろん出向くが、沿線の大会情報も極力集めるようにしている。だが、これが難しい。 「盆踊り大会・8月20日・21日。6時〜10時」  という貼《は》り紙を見たときが、21日の10時10分だったりして、 「しまったー!」  と、地団太踏むことになる。『ぴあ』はなぜ盆踊り情報を載せてくれないのだ。  盆踊りはたのしい。盆踊りはリリカル。盆踊りは有酸素運動(エアロビクス)。盆踊りは老若男女参加機会均等性。「全国冷し中華愛好会」は一年中、冷し中華が食べられるように運動している会らしいが、私も「全国盆踊り愛好会」をつくって、一年中盆踊り大会があるように運動したいくらいだ。  そう思っていた矢先にカラオケBOXに行く機会があった。  なげやりに歌詞本を探れば、おや、『東京音頭』があるではないか。これならふりつけが簡単だから踊れるぞ。私は同伴者二名に歌ってもらい、狭いBOX内で踊った。狭かったので物足りないけれど、やはり盆踊りはつくづくたのしい。 『東京音頭』に味をしめて『平成音頭』を探したら、これもあるではないか。ただ、ふりつけがうろおぼえだ。一応、選曲したらレーザー画面におばさん三人が出てきて踊ってくれたので問題は解決した。  図にのって『炭鉱節』を探したのだが、残念、これはない。私のお気に入りの『ご町内音頭』もなかった。『ご町内音頭』はふりつけがしゃれていてとてもいいのだ。  しかし、なんといっても音頭のなかの音頭といえば『オバQ音頭』である。  これの歌詞はすごい。 ♪キュッキュキュのキュ♪  という出だしもスピーディにスリリングだが、キュッキュキュのキュのあとに、間髪入れず「ア、ソレっ」と合いの手が入る。 ♪キュッキュキュのキュ ア、ソレっ  キュッキュキュのキュ これまたっ  オバQ音頭でキュッキュッキュッ♪  と、鍵《キー》を入れたところで、 ♪空は晴れたし、ほいオバQ♪  と、ギアが発進してメロディがはじまる。はじまったらすぐ、 ♪悩みはないし、ほいオバQ♪  である。悩みはない、とはっきり言うのだ。「悩みは忘れて」でも「悩みはちょっと置いといて」でもない。「悩みはない」のだ。この大胆な言い切りパンチ! パンチをくらったところで、 ♪心うきうき♪  と、暗示をかけられ、つぎは決定的トドメ打ちに、 ♪オツムも軽いよ♪  である。  すごい。すごい歌だ。すべての煩悩から解脱《げだつ》させられるような歌だ。明るさ底抜けとはまさにこの歌のこと。  これに比べりゃ『おどるポンポコリン』なんて陰気にさえ聞こえてくる。  それなのに、近年、この名曲が盆踊り大会ではかからない。嘆かわしくももったいないことだ。  思いあまって、私は町内盆踊り大会に行ったさい、実行委員のような人に訴えた。急に訴えると不審人物に思われるだろうから、まずは、数曲踊っておいて、途中で、 「ふーっ、ちょっと休憩よ」  みたいな雰囲気を、オーバーアクションで現しながら、委員の一人にナチュラルに近づいた。 「『オバQ音頭』はやらないんですか?」  と、ナチュラルに問う。 「うーん、やらないね」  と、委員は答える。そこで、懇願である。 「お願いです。来年からは『オバQ音頭』をぜひやってください」  私は両手をあわせた。 「テープが用意できたらやってもいいけど」  委員は腕をくむ。 「テープなら用意します」  きっ、という表情をする私。ところが、 「で、あなたはふりつけが教えられるんだろうね?」  委員のこの質問が私をうろたえさせた。  踊れない。  時久しく踊っていなかったために、私はもう『オバQ音頭』のふりつけを忘れているのだ。なんということだ。『オバQ音頭』が大好きな私でさえおぼえていないということは、曽我町子版オバQ世代にも『オバQ音頭』が踊れない者が大勢いるにちがいない。これはもう無形文化財保護の域の問題である。  なんとしてでも、まずは私から『オバQ音頭』のふりつけをマスターしなくては。だが、どうやってマスターすればいいのか?  私の予感では藤子不二雄先生ですら、ふりつけはおぼえていらっしゃらない気がする……。 ちびまる子ちゃんの意地悪  爆発ヒットのまる子ちゃんもついに終わった。 『ちびまる子ちゃん』という作品は、レトロに訴える作品であった。  あれは昭和40年代後半の日本を舞台にしていたのだろうか。そのころのなにげない日常生活の思い出をつづってくれたまる子ちゃん。  なにげないことだけれどもなにげないことだからこそ愛《いと》しい思い出。  思い出のあえかな息づかいを、センチメンタルになることなく、みごとに楽しくまる子ちゃんはつづってくれた。私はいつも日曜日の夕方6時をとても楽しませてもらった。  そのまる子ちゃんに対して私は一度だけ激しい憎しみをおぼえたことがある。  この告白をすることを、私はかなり長い間ためらっていた。 「なんですって。なんて人なの!」  と、多くの人から非難ごうごう、になる気がして。  しかし、私にはあの作品をけなすつもりはまったくないのである。まる子ちゃんを嫌いなわけでもないのである。それどころか楽しみにしていたのである。  ただ、一度だけ。一度だけ憎んだのである。  それは、まる子ちゃんが幼稚園のプールの時間をズル休みするという話の回を見たときのことだ。  まる子ちゃんの通っていた幼稚園ではプールの時間は男女ともにパンツ一丁にならなければならなかった。  それが彼女には断じて譲れない恥ずかしい行為であったために、彼女はかたくなにプールに入ろうとはしない……そういう話であった。  私はこの回を見たとき、 「ああ!」  と、ベッドに俯《うつぶ》してしまうほど胸をつまらせた。  私の通っていた幼稚園でもプールの時間は男女の別なくパンツ一丁にならなければならなかった。私もまる子ちゃんとまったく同じ気持ちで、そんな恥ずかしいことをさせる先生たちをうらんだ。  幼稚園児があどけない、などとタカをくくってはいけない。幼稚園児はそれなりに立派に性にめざめている。事実、パンツ一丁のすがたになった女児に男児はセクハラしてきた(先生の見ていないところで)。  まる子ちゃんがパンツ一丁のプール遊びについてもらす嫌悪感のモノローグは一字一句まで私と同じだったと言っていいほど、私は彼女に共感していた。  だが!  私は我が心を押し殺し、必死で必死で必死で必死で耐えに耐えに耐えてパンツ一丁になって先生の命令に従ったのだ。  でないと許されなかったのだ。もし、私が、 「プールの時間は休みます」  とでも言おうものなら、先生はいっせいに私の家に連絡をしてくるのが目に見えていたからだ。そして、親は鬼のように私を叱《しか》ることが目に見えていたからだ。  それなのに、なぜ? なぜ? なぜ、まる子ちゃんは、 「いやだ」  のひとことでプールの時間を休むことができるのか?  まる子ちゃんのお母さんもなぜ、 「ヘンな子だねえ」  としか言わないのか?  私はまる子ちゃんの家庭の「気楽さ」を羨《うらや》んだ。「明るさ」を妬《ねた》んだ。「ほのぼのさ」に泣きたいくらい憧《あこが》れた。  まる子ちゃんの「次女」という立場の強みが歯ぎしりするほどくやしかった。  私だって私だって、 「あたしゃ、いやだよ」  と言いたかったのだ。 「いやだ」  と言ったら、 「ヘンな子だねえ」  ですんでしまう家庭が欲しかったのだ。  まる子ちゃんへの羨望《せんぼう》があまりにつのり、つのりすぎてそれは憎しみへと転化してしまった。  そういうわけで、私はこの回のときだけ、まる子ちゃんを憎んだのである。  ああ、クラい。クラい私の性格。つまり、まる子ちゃんには何の責任もないことなんである。 売春を国営化せよ 「看護婦の給料をソープ嬢と同じにしろ、そうすりゃ、寝たきり老人問題は解決だ」  と、ビートたけしは言った。  ほんとだ。  寝たきり老人だけでなく、ひろく重病人にとって、またその家族にとって看護婦・看護士は、医師以上に精神的支えになってくれる存在である。この看護婦・看護士の労働条件が悪すぎるのは、どうしたものだろうか(以下、看護婦・看護士ふくめて看護士と記す)。 「医師と看護士の給料は同額でいい。もっととっていい。ソープ嬢よりとっていい」  と、私もビートたけしと同じようなことを考えていたこともあった。  しかし、これだけでは、どこからその金を調達してくるか、という問題が残るのだ。  で、売春防止法なのだが、これを廃止にしたらどうかと思う。  過去においては、この法もそれなりに意義や価値を持っていたかもしれない。  貧しいがために人身売買によって売春を強要されていた女性の救済になっていたかもしれない。  けれども、現在の日本人風俗産業従事者のほとんどは自主的に売春および準売春をしていると推測される。  となれば、なにも法律によって救済することもないのであって、それよりもこの法律が現実の事態をよけいに悪くしていることに注視すべきではないかと思うのだ。  エイズ問題。年々患者が増えているというのに日本ではおもだった対策が何もなされていないに等しい。緊迫感がなさすぎる。緊迫感がないから、エイズ患者をいたずらに怖がったり闇《やみ》に封じ込めたりしている。こんな悪い事態はない。  患者は適切な処置を受けられるように、また、ウィルスがひろがらないように、とにかく、今できることから何かしないと。  売春防止法は廃止して、売春を国営化すればどうなのか。  売春婦・売春夫は、すべて公務員にする。特殊国家公務員として働く。 「公務員になったら給与が一律になるからいやだ」 「そうよ。ブスなコと美人なコの手取りが同じなのはおかしいわ」  という反論が風俗産業従事希望者からあがるかもしれないが、もちろん、特殊国家公務員だから、初級・中級・上級、に分けて試験を受けさせるのである。  試験内容も「外見部門」「技術部門」「気立て部門」の3部門を設け、たとえば、外見部門で得点が低くとも技術部門と気立て部門で得点が高かったら3部門の平均点をその人の得点とする。またたとえば、外見部門だけがずば抜けて良くて他が低くとも、やはりその平均点をその人の得点とする。  級数審査はこの平均点で行われるとしたら不公平ではなくなるだろう。  現在、売春の平均価格は90分で1万5千円である(売春、とひとくちにいっても、ファッション・ヘルス、ホテトル、ソープランド等々、さまざまな形態があるので、これらすべてを見通しての価格を1万5千円とした)。  これでは国家公務員には安すぎる。  国営売春法では、基本料金を、初級で5万円にする。中級が10万円。上級が20万円。当然、特殊国家公務員級数判定試験の審査委員も自腹を切って試験にあたる(そうしないとまた、公務員汚職がおこるため)。  これだけ高い金額を客からとるのだが、ただし、税率はビール並にして、手取りは2割。八割は医療福祉にまわすことにする。  昭和33年に売春防止法が施行されてから30余年、売春をするもの買うものがいなくなっただろうか?  すこしもいなくならないではないか。これはつまり、1回の売春料が5万でも20万でも、取引が成立する証明である。  ならば、この料金と税率システムで国営売春はやっていけるはずである。  国営下、特殊国家公務員は徹底した健康管理を受け、自らも管理し、さらに利用者にも健康診断書の提示を義務づける。形ばかりの提示ではなく、違反者からは、これまた多額の違反料金をとる。  法で禁止するから、売春開業者が跋扈《ばつこ》し、健康管理が行き届かない。売春婦・売春夫側も犯罪に巻き込まれたりして命を落とす危険と背中あわせである。国営管理をして、特殊国家公務員の福利厚生や住宅もしっかりとケアすれば、私設売春者はおのずから激減し、買うほうもボラれたり暴力団に脅かされたりする心配もなくなる。  それでもエイズは発生するだろう。だいたい売春・買春だけがエイズの原因ではないのだから。でも、少しでも蔓延《まんえん》が防げるのではないだろうか……と、思ったんだが、世の中には何の考えもなくセックスできてしまう男女がいるんですよね。この問題が残ってしまったなあ。 恋愛下手になろう  ———まだ二十《はたち》かそこらのころ、私はよく夕暮れの道路に車を走らせた。  当時はワーゲンに乗っていて、ずんぐりと堅固なそのボディは私のお気に入りだった。  春まだ浅き日のこと、幹線道路から逸《そ》れて海の見える細い道に車をとめていると、 「レイコ」  知らない男が知らない名前で私を呼んだ。 「だれだか知らないけど、私はレイコじゃないわ」  私はセーラムをポンと彼のほうに向かって投げ捨てて言った。 「失礼」  一瞬、とまどった表情をしたのちに、彼は言った。 「ずっと昔に親しかった女性に後ろすがたがあまりに似ていたので……」  急に彼は礼儀正しい態度に変わり、少しぎこちなく謝った。  これが私と彼とが出会ったきっかけ。  彼は私よりもひとまわり年長で、奥さんがいて、そして、大人だった。  私は彼の大人をふりまわすことによろこびを抱いた。それでいて、彼の大人についていけなかった。  愛し方も彼は大人だったから、それはどこかさびしくて———。  ……と、まあ、こんなふうな話が、私は大っっっっっっっっっっっっっっ嫌い!! である。  でも、作るのは簡単である。このタイプの話ほど書くのが簡単なものはない。いくらでも書ける。  ———朝、雨の音で目がさめた。パジャマを着て寝るのはきらい。素肌に毛布を巻きつけてベッドからだらしなく出てくるときの、そのひとときが好き。  そして、いつも私は起きると毛布を巻きつけたかっこうのまま、椅子《いす》にすわる。  白いペンキを自分で気まぐれに塗ったその椅子は、窓の下にちょこんと置いてあって、おはようのあいさつをしてくれる。  そこにすわって窓を見るのが、私の朝。私、雨って嫌いじゃあない。  雨だれが窓ガラスをつたっていくのを見つめているのは、何時間でも平気。  夕べの彼のぬくもりなど、朝になれば忘れてしまう。恋はつかのま。雨はずっと。  だから、私は雨が嫌いじゃあない———。  また書けたぞ。いくらでもこい。いくらでも書けるぞ。簡単なんだもん。一冊書き下ろせるくらい書けるんじゃないかな。それも、ワープロ入力せずに、部屋から直接、印刷所へ電話して、口頭でダイレクト印刷できるのでは、と思えるほど。  ただし、腹に力をこめてないと、むずむずこそばゆくなってきて吹き出すから要注意。ったくド恥ずかしい語句ばかり並べないとならないからね。  ほんと。  なにがワーゲンだ、雨だれだっつうの。なにが堅固なボディだ、セーラムだっつうの。自転車|漕《こ》いでろ、と言いたいわ。  だいたい、こんなに交通網の発達した日本の都市で車に乗ること自体、はっきり「犯罪行為」だよね。  煙草の吸殻をぽんと道に投げ捨てるような鈍感な神経の女が、さびしい、とか、雨が好きとか言うなよな。  レンアイだのカレだのベッドだの、いいかげんにしてくれ。  そりゃ、それも大事なことなんだろうが、しかし、ほかに考えるこたないのかね。朝起きて何時間でも窓の下にいるなんて無理でしょう? 実際には朝は尿が膀胱《ぼうこう》にたまっているから、まずはおしっこするんじゃないの? それこそ雨みたいにじょばーっと。いや、失礼しました。ちょっと下品な物言いでしたね。でもさ、こういうスカした話を読んだり、聞いたり見たりしてると、ついつい、下品さをデフォルメしたくなってくるのよ。  美しい、というのと、スカしてる、というのとは、ちょっとちがうんじゃないかなあ。まあ、24歳以下なら、こんなころも水疱瘡《みずぼうそう》のようにみんな一度は通過するんだけどね、なかには30歳過きてもどーどーと臆面《おくめん》もなくやってる人もいるから驚き桃の木山椒《さんしよう》の木。 「私って、どこか魔性の女タイプなとこがあるみたい」  と、ためいきまじりに言った知人(36歳)がいて、どっひゃー、ってなりましたね、ええ。 「驚き桃の木、山椒魚の木。山椒魚《さんしよううお》が枝にいっぱいなる木のことさね」  と、返事したけど、ぜんぜんウケなかった。  なわけで、私は冒頭のような話がでえっ嫌いである。  ところが。  嫌いなのに、むりやりこういうふうな女を演じないとならないことが、ままあるのだ。 『恋愛上手になろう』  などと題された女性ファッション雑誌のコメントをするとき。 「えー、今回の特集でですね、ぜひ、姫野さんの恋愛体験をとおして、恋愛のエチケットとかマナーのようなものについてお話をきかせていただきたいのです」  こんなふうな電話がかかってきて、私はそりゃあもう、うれしいわけである。なにがうれしいかって、私のような売れてない作家に取材を申し込んで来てくれることが。  でも、私は恋愛のことなどわからないわけですね。カレなんて存在、私は所有したことないんだから。カレがいる、って感覚の経験がまったくわからないんだから。  それなのに依頼者のほうは、 「あるにちがいない」  と、信じて疑わないの、あれ、どうしてなのだろう?  こちらがいくら、 「適当な具体例が私にはありません」  と言っても、 「いや、ある!」  と確信している。  取材を受ける喫茶店で、私が観念論をモタモタしゃべると、 「いや、そういう理屈っぽいことではなくて」  向こうはにじりよってくる。 「具体例があるでしょう。あるよね。あるはずだ。あるのだ! さあ吐くんだ!」  といった、ほとんど刑事の取り調べを受けている心地に私はなってきて、 「旦那《だんな》、勘弁してくださいよ。頼むからもう家に帰らせてください」  という心地で虚偽の自白ならぬ、虚偽の恋愛豊富女にならざるをえなくなってしまう。  そういや学生時代に20分ほどいっしょに図書館で調べ物をした同級生男子のことを、ホコリをかぶった古い記憶のなかからピックアップしてきて、 「そうですねえ、横に並んで腰かけるときに膝《ひざ》が触れたりすると、どきっとするから恋のチャンスかも」  と、べつにその同級生にどきっとすることなんかこれっぽっちもなかった(お互いに)のだが、こんなふうに言うわけである。するとそれが雑誌に載ったとき、印象としては、図書館で調べ物をしていたときのことではなく、なんかしらんが、ホテルのラウンジでのできごとのようにできあがっているのだ。私はこういうの、ほとんど捏造《ねつぞう》記事だと思う。  ほんとに恋愛関係のコメントというのは苦手だ。  で、なぜこんな取り調べ的なコメントをしなくてはならぬハメになるのか、最初はよくわからなかった。  最近、推理した。どうやら世間には、 「小説を書いている女性=恋愛豊富」  という図式を頭にヤキゴテで押された人が存在するらしいのだ。  雑誌社だけに存在するのではない。日本全土に分布しているらしいのだ。  困ったものである。  そりゃ、本当に恋愛豊富で小説を書いている女性もいるのだろうが、小説を書いているからといって必ずしも恋愛豊富なわけではない。「恋愛豊富」は「小説を書く」の必要条件でも十分条件でもないのだ。もういっかい数Iを勉強しなおしてくれ。  小説を書くという作業の必要条件は「ひとりでいること」である。  私は大学生時代から小説を書いてきて、現在にいたるまでずっと「ひとりでいること」をしている。  そのうえ、私はスター作家でもなければ、売れっ子作家でもなければ、名誉作家でもない。日銭を稼いで糊口《ここう》をしのいでいる細々作家なのである(なにせ最近の人は小説本を買ってくれない。ケーキとコーヒー飲んで千円出すのには文句を言わずとも、本が千円だと「たっかーい!」と言う)。  私の年収と「ふつうのOL」と呼ばれる女性たちの平均年収を比べれば、たぶん私は彼女たちの半分だろう。小説を一冊出版して私に入る金額は、たとえば朝日新聞社の30歳・入社6年の女子の2ヵ月分を切る。そして小説は2ヵ月では書けない。それほど小説書きとは売れない稼業なのである(売れているのはごくごくごくごく一部の人だけ)。  パンストが伝線すればもったいなさに糸で縫うし、小学生のときのプール教室で使っていたバスタオルを今だに使用し、中学2年の中間試験の終わった日に買ってもらったポロシャツを、この原稿を書いている今日も着て、セーター類はお金持ちのデザイナーの友人から譲ってもらい、食事どきを狙《ねら》って編集者との打ち合せをして一食でも食費を浮かそうとするあさましいケチの知恵を身につけた、体重60キロの女、それが私なのだ。  そんな私がいったいどうして恋多き女になれるというのだろう。恋はゆとりある生活から生まれるもの。貧乏で体重60キロの若くない女がいったいどうして男性たちの目をひくというのだろう。  ほとほと疲れきってしまう。それで、先日、取材ではなかったが、編集者から恋愛相談をされたとき、 「私には恋愛のことはわかりません」  と、はっきり言った。すると相手は、 「またあ、そんなことはないでしょう。嘘《うそ》ばっかりぃ」  と言って笑った。こいつは、私の本すら、雑誌に連載しているコラムすら読んでいないことにもなる。私はもうすこしで本気で殴るところだった。  そんなに恋愛豊富な話をさせたいのなら、まず男を連れてこい、と言いたい。私でもよいという理想の低い男を連れてきてくれ。そしたらその男と「つきあう」とかいうのをするから。してからコメントするから。 【文庫版特典・文章講座】 「恋愛のコメント」より「文章の書き方」についてのコメントこそ、私には依頼するべきではないのか。細々が冠につけども作家は作家なのだし。  そこで、依頼されてないが、文庫版特典として、ここにコメントする。  前の項は「ぼくも(わたしも)文章を書いてみたい。とりあえずはエッセイから書いてみたいのだが……」と思っている人への教材に最適の例である。 『恋愛下手になろう』と題されたこの項。読んだ人は筆者である私のことを「デブでブス」だと、漠然と思う。理由は「体重60キロ」と「カレはいない」の一文である。数字は強い。読み手の目に強烈に飛び込んでくる。とくに算用数字は強い。「60キロ」。これはすごいデブだと読み手は思う。ここに文章|技術《スキル》がある。  一般に女性は体重を明言しない。明言する女芸能人は10キロ近く減らしてサバを読んでいる。なもので、男性は「女性とは体重が40キロ代なもの」と洗脳されている。シンディ・クロフォードも体重が40キロ代だと思ってしまっている。身長180センチのシンディ・クロフォードの体重が40キロ代なら、よもやあのセクシーダイナマイトな肢体はありえまいとは、考えないのである。なんといっても情緒とキンタマで思考する非論理的な生物だからして。これで読み手のうち男性の99%が「算用数字のトリック」にひっかかる。つづいて体重を気にしている女性がひっかかる。女性の大半は体重を気にしている。よって読み手のほとんどがひっかかる。こんなにデブなら、そりゃカレがいないだろう、と思う。  これに「朝ならおしっこがじょばーっと出る」「先に男をつれてこい」等々の表現がかぶさる。これらは露悪的に表現してみせた部分である。こうすることによって「スカした、気取った言いまわし」に対照する例が示せる。  文章には映像の補助がない。文章のみで鮮明な映像を読み手の頭に浮かび上がらせるためには、常に緩急の対照例を示す注意が必要である。この注意を怠ると、退屈で胡椒《こしよう》のきいていない料理のようにしまりのない文になる。  多くの純文系作家(男女問わず)のエッセイが退屈でしまりがないのは、純文学界では「スカしていないといけません」と新人のころから伝統を守らされるからである。「スカす」と「道化になる」の対照を欠くため、平面的な備忘録でしかないエッセイもどきができあがる。  この項で筆者は「ブスでデブな人」という印象を読み手に与えることに成功している。なぜそんな印象を与える必要が? 愚問だ。読み手より低い位置に書き手は立つべし。これが「お客さまをおもてなしする主《あるじ》の心得」である。茶道でも亭主はお客さまに「お茶をふるまう」と心得る。美意識と羞恥心《しゆうちしん》の本質である。  もしこの項の、たとえば、 「ケチの知恵を身につけた体重60キロの女、それが私なのだ」  というくだりが、 「体重は四捨五入するとトンデモないことになる、身長165センチの(でもウエストはちゃんと60センチだからね。バストはEカップだけど)女、それが私なのだ」  となっていたら読み手はどう感じるか。文のテンポがもたつく。そして、なによりも、おもしろおかしく書いているようでいて、そこに「巧妙な自慢」が散りばめられていることを、即座に嗅《か》ぎつけるだろう。嗅ぎつけなければ、よほど鼻が悪い。  女性のエッセイがこうなりがちなのは、「かわいい」とか「きれいだ」とか思われてきた人が、周囲のバックアップあってエッセイを書きはじめることが、今までは多かった歴史のためである。  筆者(姫野)がこの項でおこなったような露悪(真実を真実のとおりに表現する、と言い方をかえてもよいが)をおこなう人を、周囲(おもに男性)は容貌《ようぼう》とは無関係に「かわいい」「きれいだ」とは思わない。思えない。よって露悪し慣れていない人が書くことが今までは多かったので、必然である。  といって、なにも卑屈になることもない。自慢したいことがあるなら自慢するのもよいのである。これは自慢だと自覚してストレートに自慢するなら、読み手も「そうか」とそのままに読むのだから。そのまま読んで「そうか、嫌いだこの人」と思う読み手もいるだろうが、それはしかたがない。読み手の自由というものだ。  で、この項の主題は「小説を書く=ひとりきりでおこなう作業である」ということである。ならば筆者は「どブスでデブ」だと読み手に思われるくらいでなければ「ひとりである」という状態の「森閑」は、読み手に刻印されないのである。これが文章技術というものだ。心得よ。 ふるさとの神様 ♪うさぎ追いし彼の山    こぶな釣りし彼の川♪  文部省唱歌『ふるさと』である。  私は子供のころ、ずっと、 ♪うさぎおいしい彼の山♪  だと思っていた。こぶなも釣って、あとで食べるのだと思っていた。鹿や猪やうさぎは食用になるのを、どこからともなく知っていたし、 「イギリスにはうさぎの肉と血を使った家庭料理(煮込み)があります」  と、当時、私をかわいがってくれていた宣教師からも聞いていたので、おかしな歌詞だとはついぞ思わなかった。 「ふるさと」  いやはや、なんとも……。私は「ふるさと」ということばを見聞きすると、必ず、胸が重く苦しく、石油が流れた水たまりに顔をつっこまされて背中を踏んづけられている心地になる。 「ふるさと。自然。みどり。家族。ぬくもり。やさしさ。素朴」  こういうことばはすべて私の辞書の、 「重圧感のある、いまわしいことば集」  のページに記されている。でなかったら、 「うさん臭いことば集」  のページだ。  森林は大切にしなければならないと、皮肉ではなく真剣に私は思う。もしかしたら、平均以上に大切にしているかもしれない。環境問題は全人類をあげてとりくまなくてはならない。  しかしですね、 「ふるさと。自然。みどり。家族。ぬくもり。やさしさ。素朴」  と、マクドナルドのセットのようにセットされたときの「みどり」とか「自然」とかというものには、環境破壊についての問題意識はあまり含まれていないような気がしてならんのですが、いかがなもんでしょうか? 「ふるさと。自然。みどり。家族。ぬくもり。やさしさ。素朴」  セットでこうやってもってこられると、なんだか1歩も2歩も3歩も4、5、6、7歩も引いてしまって、しまいには100メートルくらい引いてしまうんですが。 『となりのトトロ』っていう映画があったじゃないですか、あれを見たときもそうだった。  画面の色彩がきれいで、構成もうまい。しかし、 「純粋な子供にだけ、トトロは見える」  っていう、アレがどうも、いやはや、なんとも……。  だって、子供ってそんなに純粋?  子供って、汚い。とてもずるくて、日和見《ひよりみ》で、浅はかで知性がなくて、しかも残酷でスケベエだ。なぜなら、 「自分の子供のときのことを思い出してみてよ、こうじゃなかった? 都合よく忘れてしまわないでよ」  と、思うからで、そんなことなかったわ、と言う人は、㈰とても高飛車で傲慢《ごうまん》な人 ㈪健忘症の人、のどっちかではないか。  大人になって子供のころの汚さ、ずるさ、浅はかさ、残酷さ、いやらしさ、を受け入れる度量ができるからこそ、子供がかわいいのではないか。  そしてまた、「子供」とひとくちにいっても、いろんな子供がいる。近所の路地でよく出会うユキちゃんという女の子に『セーラームーン』の話をしてもらうのはたのしいが、キミちゃんという女の子から聞く『セーラームーン』はちっともおもしろくない。 「子供ってかわいいわ、子供が好きよ」  なんて言うのは、子供に対して無礼千万。大人になって度量ができたところで、自分と相性の合う子もいれば合わない子もいるのだし、 「子供って純粋よね」  なんてひとくくりにされたら、子供は立つ瀬がないと思う。 「純粋だからトトロが見えるわね」  なんて言われたあかつきにゃ、迷惑だと思う。  でもまあ、大人になると子供に対して幻想を抱きたいのかな、とも思うんで、まあ『となりのトトロ』までは、なんとかモッた。限度を越えたのは『おもひでぽろぽろ』。  宮崎|駿《はやお》の作品は『ルパン三世・カリオストロの城』が大好きで大好きで、鳥肌が立つほどしびれたものだが『おもひでぽろぽろ』、これはいったいどうしたこっちゃ。  都会は冷たいが田舎にはやさしさがあると思ったヒロインが農家に嫁ぐまでを描いた物語で、私は『カリオストロの城』のときに立てたのとは別種の鳥肌を立てたものである。  このヒロインは田舎がやさしいと思ったのだから、それは彼女の自由といや自由なんだろうが、 「でもね、田舎って、ものすごく怖いところなんだよ、知ってんの?」  と、言いたくなるのだ。  田舎の因習と掟《おきて》。この重圧といったら筆舌尽くしがたいんで、ここでは割愛してとりあえず形に見えるものについてのみ言及するけれど、田舎にはね、あなた、虫がいっぱいいるんだよ。虫。虫。虫。 「みどりがきれいねえ」  なんて、言ってるうちにもうあなたの腕や首や頬《ほお》や背中は虫に刺されてぶよぶよに赤く腫《は》れる。  寝ているうちに蒲団《ふとん》の中にも原色まだらの毛虫が入ってきて、朝起きたらおっぱいのところにべっとりついてんの。  トイレは汲《く》み取り。便器のふちにはぞろーりとウジ虫がごはんつぶみたいにびっしりはりついてて、それがまたうよ、うよ、うよ、って動いてんの。  ごきぶりも多いよね。電灯のスイッチをさぐればスイッチがむにょむにょっと動く。ぎゃっ。黒いからスイッチに見えたのは、ごきぶりだった、ってことしょっちゅう。驚いて声を出すと、ごきぶりのほうも驚くのか、ぶぎーんと音をたて、顔をめがけて飛んでくる。逃げても逃げても飛んでくる。1匹につられてもう1匹、2匹のごきぶりが飛んできて、ぶちょっ。首にくっつく。背中にくっつく。おぞましさに全身をゆすれば、ごきぶりもあわてて、全身をぞわぞわぞわっと歩きまわる。 「きゃーっ」  あなたが叫んでも、田舎の人は、 「ほほほ、ごきぶりくらい」  と、知らん顔。血相かえてブラウス脱いでスカート脱いでブラジャーはずして、やっと田舎の人はハダカ見たさにふりかえってくれることでしょう。  はあはあとやっと落ちつき、気持ち悪さに風呂に入れば、風呂のなかにとかげ。ほうほうのていで風呂からあがり、もういやっ、と雨戸を閉めようとすれば、雨戸のわきにぶっとくてにょろにょろの蛇。腕にからまる蛇をふりほどき、やっと床に入れば原色まだらの毛虫が待ちうけ、毛虫に刺されてかぶれたあなたの肌を、やはり虫に刺されてかぶれた肌の夫が触る。爪《つめ》が土でまっくろになった手で。夫は田舎育ちで免疫があるけど、あなたにはない。爪についたバイキンがあなたの都会育ちの性器について尿道炎に膣炎《ちつえん》。お医者さんに行こうにも病院は車で2時間のさいはての地に。しかたがないさ、と夫に言いくるめられセックスするも、そのセックスはプライバシーのない田舎の家屋では親族一同につつぬけ。あんなに毎晩、好きもののくせに、ややこはまだできんのか、となじられそしられ、 姑《しゆうとめ》 、小姑、悪口の嵐。 「ああ、おもひでぼろぼろ」  あなたはきっと涙する。  そんなに田舎がいいのだろうか。 「東京には空がない。みどりがない」  智恵子のようなことを言うのなら、どうぞどうぞ、さっさとみどりの多い土地にお引っ越しなさってください。もう帰ってこないでください。東京の住宅問題もちったあマシになるでしょう。どうぞ、どうぞ、ナチュラルでピュアなぬくもりの土地にお引っ越しなさってなさって。よろこんでお見送りします。 「ふるさと。自然。みどり。家族。ぬくもり。やさしさ。素朴」  こういうことを言う人に会うたび、いつもお引っ越しをすすめたくなる私である。  だが、あるとき悟った。ふるさと。自然。みどり。家族。ぬくもり。やさしさ。素朴。こうしたことばセットは、もはや教典なのだと。  日本人は絶対的な宗教を持たないと言われるが、実はあるのだ。  大日本ふるさと教。  これである。田舎の実態を理解している人でさえ、 「ふるさと」  このことばにはひれふすのだ。 「家族のぬくもりってすばらしい」  このことばを信じるのだ。 「子供ってなんて純粋」  このことばにほほえむのだ。 「田舎には素朴なやさしさがある」  このことばを唱えるのだ。  これはもう、日本人の宗教なのである。つまり『となりのトトロ』も『おもひでぽろぽろ』も宗教アニメだったわけである。  ふるさとが温かい場所には思われず、子供はスケベエだと思う私は、では異端者です。どうか日本のみなさん、異端者に石をぶつけないでください。許してください。  宮田輝というアナウンサーが司会をしていたNHKの番組に、『ふるさとの歌まつり』というのが、そういやあったっけなあ……。 王子様はどこにいるのだろうか 「なんてきれいな女だ。なんてきれいな女だろう。ぼくのことをちっともふりむいてはくれないけどさ。ぼくなんか、きれいなあの子にぜんぜんふつりあいな醜男《ぶおとこ》だけどさ。でも、ぼくはあの子を見ずにはいられない。だって、あの子は無理してるように思うから、ほんとはぼくと同じようにさびしいんじゃないかなって思うから」  ロイ・オービソン歌う『プリティー・ウーマン』という歌は、今は、映画『プリティー・ウーマン』の主題歌として世に浸透し、この歌をきくとジュリア・ロバーツを思い出すようになった。  ああ『プリティー・ウーマン』。なんという映画なのだろう……。あんな映画は私にとってはじめての映画だ。  ずいぶん多くの映画を見た。好きな映画もある。嫌いな映画もある。私が好きな映画はあなたにとって嫌いな映画かもしれない。私が嫌いな映画はあなたにとっては好きな映画かもしれない。それで当然である。好みは人それぞれ。 「私は『サウンド・オブ・ミュージック』が大好きなの」 「えーっ、あんな嘘《うそ》くさいヒューマン映画が?」 「そこがいいのよ。映画なんだから」 「やっだー。私はだんぜん『道』だわ。あの映画のリアリズムに感銘を受けたわ」 「それは、わかるけど、私は重っくるしいのはいやなのよ」 「なんだかんだ」 「ああだこうだ」  こんなふうに映画の話をしているのは、とてもたのしい。好きな映画が一致するのもたのしいけれど、くいちがうのも、また、いい。いろんな好みがあってすごくたのしい。  しかし、私は『プリティー・ウーマン』という映画を見たとき、嫌いとか、好きとかいう感情ではなく、 「許せない!」  と、思った。  許せない映画など、私にとってはじめての映画である。  フェミニズム運動とか、女性の権利とか、そういった問題を、私はひごろ、あまり口にする人間ではない。  それどころか、エッチっぽい洋服の女の子と電車で接近したりするとうれしくてならない女である。  その私が、 「こんなに女性をバカにした映画はないっ!」  と、思ったのが『プリティー・ウーマン』だった。 「セクハラ映画だ」  と、思ったのが『プリティー・ウーマン』だった。 「クソ、えんがちょ、ババ映画である」  ある雑誌にこう書いたら反論の手紙が、女性から来たので驚いた。  その人はこのクソ・セクハラ映画を「おとぎ話のような映画」だと言うのである。 「姫野さんは、こんなの、ありえない、ありっこないと嫌うのかもしれませんが、ありえないおとぎ話っていいじゃないですか」  彼女はたいそう怒って手紙に綴《つづ》っていた。  とんでもない。私ほど、ありえないおとぎ話が好きな者はいない。白い馬に乗った王子さまと可憐《かれん》な娘の話は、大好きである。いい年して、と、バカにされても好きである。  だが『プリティー・ウーマン』はすこしも「おとぎ話」ではないではないか。下世話な現実の、せちがらい、わびしい話ではないか。リーチャード・ギア扮《ふん》する主役の男は、最初から最後までみごとに、  自分ではなんっっっにもしない男、  なのである。  会社社長というが、その会社も自分で作った会社ではなく、父親から譲り受けたもの。譲り受けた会社でてきぱき仕事をしているかといえば、なにもかも秘書まかせ。どこかの国のサエない政治家のよう。  ジュリア・ロバーツを、ビジネスとしてではなく、個人として好きになっても、キスも自分からはできない。ジュリア・ロバーツのほうが眠っている彼にそっとキスするのが最初のキスである。それからセックスになっても、風呂場でソープランドの客よろしく、まぐろのように寝ているだけ。ジュリア・ロバーツに足をあらってもらって、やさしく励ましてもらって文字どおり手取り足取りとはこのこと。  どんなに出来の悪い作品でも、アメリカ映画はラブ・シーンだけはステキに撮るものだが、こんなにラブ・シーンが貧乏くさいアメリカ映画がよく誕生したものだ。  ジュリア・ロバーツと自分はどのようになりたいか、どうしたいのか、自分では何ひとつ考えがない。いつもただ、 「ふうむ、まんざらではない」  というような顔をしてリチャード・ギアはにやにや笑いをしているだけ。ジュリア・ロバーツをなぐさめたのはリチャード・ギアではなく、ホテルの支配人である。  ジュリア・ロバーツがいったん去っても、自分では探さない。ただ、がっかりしてぼんやりしているだけ。  ジュリア・ロバーツの家をだれが探したか? 執事ではないか。ジュリア・ロバーツの家までだれが行ったか? 運転手ではないか。リチャード・ギアはただ言われるままにリムジンに乗ってただけ。だれがジュリア・ロバーツへの薔薇《ばら》の花束を持たせたか? 執事ではないか。せめて電話注文くらい自分でしてほしかった。  あげくにジュリア・ロバーツと抱き合うラスト・シーンでまで、彼は彼女に訊《き》く。 「ラスト・シーンではどうするんだい?」  と。もう情けなさの極致。自立した精神などこの男の体のどこにもない。キンタマついとんのかおんどれが。  こんな男のことを好きになっていくジュリア・ロバーツの行動過程もなんとも浅薄。 「よくない男だけれど、セックスがたまらなくいいの。身体が忘れられないの」  というような理由であればそのほうが、ずっと深みがあるが、もちろん、手取り足取りまぐろセックス男のリチャード・ギアにこんなセックス技術があろうはずもなく、話があうわけでもなく、ノリがあうわけでもなく、彼女がなんで彼を好きになってゆくのか、そのへんはあっさりカットされて、ただ、彼女が彼にひかれるきっかけは、ルビーとかドレスとかオペラとか、みごとに全部「物質」である。  さいしょは応対の冷たかったブティックで金があるとわかったとたんチヤホヤされる。「おとぎ話」なら、そこで怒るだろうに、ジュリア・ロバーツはうれしがっている。これじゃあ、いくら「私は娼婦《しようふ》だけれど志は高いのよ」みたいなセリフを言っても矛盾しているだけ。 『昼下がりの情事』というオードリー・ヘプバーンの映画では、相手のゲーリー・クーパーがやっぱりお金持ち。いつも女のムードを高めるために専属の楽団をついてこさせている。お金持ちなら、これぐらいのことをしてくれ、リチャード・ギア。ブティックに、たかがピザの配達をさせるくらいですまさないでくれ。ほんとにもう、ピザだよ、ピザ。五番街の高級レストランでつくったオードブルを配達させてるんじゃないよ、ピザだよ、ピザ。こんなの、私だってできるぜ、ジュリア・ロバーツ。  こんなことでうっとりしないでくれよ、頼むから、もう、もう、情けない、ここまで女を下世話に演じておくれでないよ、ったく。  そのうえ、リチャード・ギアのもとを去るときも、 「マンションの一室くらいでは足りないわ」  という、狡猾《こうかつ》な取引精神が見えてきて、せちがらくなる。まさしく娼婦の取引。  こんな映画のどこが「おとぎ話」? 「おとぎ話」なら、屋敷も会社も捨て、ただの無職の男となってアパートに駆けつけたリチャード・ギアとジュリア・ロバーツの抱擁でラスト・シーンだろうが。たとえそれが「現実にはありっこない」「現実にはなかなかそうはいかない」結末であろうとも。  こんな映画のどこが夢物語? 金さえやれば女はなびくんだと、せちがらい現実の、汚いやりきれない部分を見せただけの映画ではないか。なんでこんな映画が女性に人気が出たのか、まったくわからない。 「私もお金で買われたいわあ〜」  とでも、思ったのか。  王子さまはあくまでも勇敢にたくましく白馬に乗って、悩める乙女をさあっと抱き上げてかっさらう、それがロマンチックな夢のおとぎ話だと、私は思うんだが。 『プリティー・ウーマン』、このバブリーな映画よ。心がかさかさになる映画よ。「プリティー」を塗って出直してこんか。 〈注〉プリティー=肌のかさつきに塗るクリームの商標。 ㈼ ひとり上手 Call me いたずら電話魔のナゾ  受話器を取る。 「もしもし」  こちらが言っても向こうは無言。タダ、スーハー、スーハー荒い息。 「ぼく、今、裸なの」  荒い息をしながら、かすれがすれに言う人も、ときどきいる。  このような電話を、ひとり暮らしの女性なら一度くらいは受けた経験があるだろう。  こういう電話へのもっとも有効な対処方法は、  無反応。  これにつきる。  やめなさいと怒鳴りもしなければ、がちゃんと切ったりもせず、さりとてじっと聞いている必要もなく、受話器を机においたまましばらくほうっておけば、やがて切れる。  めずらしく土曜や日曜の夜に電話がかかってきたと、いそいそして出れば、 「ぼく、いま裸なの。スーハー、スーハー」  であると、それがどうしたと怒鳴りたくもなるが、反応すると逆効果なのだ。  しかし、こういう電話をする人というのは、 「いったいなにがたのしいんだろう??」  心底から素朴な疑問を抱く。  たとえば、フラれた相手への腹いせに無言電話、とか、あこがれの相手にうまく自分の気持ちを伝えられない結果、要領を得ないしどろもどろな電話をするとか、怒るとか恨み言を言うとか、そういった電話なら、わかる。効果的な方法だとは全然思わないが、動機はまだわかるのだ。相手が特定の人物ならば。  だが、不特定の、どんな顔のどんな背格好のどんな年齢の相手なのかもわからずに、かける人の心理がわからない。  それでも、まだ、 「ねえ、ぼくはきみのことをまったく知らないけど、ちょっとお話ししない?」  といった電話なら百歩譲れる。私はこういう電話を受けたことがある。 「声からするとおとなしそうな人だね。きっと奥さんにしたらいい奥さんになるんだろうな、やさしくってさ」  とか、 「どんな音楽を聞くの? チャゲ&飛鳥とか?」  とか、話して、しだいに、胸は大きいほうかとか、いまさびしくないか、とか、そんなふうに話を色めいたほうへ持っていく。空虚な電話ではあるが、これなら、相手が無愛想ながらも反応しているのだからまだわかる。  だが、いきなりスーハー、スーハーして、いったいなにがたのしいのか、さっぱりわからないのだ。 「女性の部屋につながっている、というだけでうれしいんだろう、たぶん」  男の友人は分析した。 「だって、いきなりスーハーしたんじゃ、相手が男か女かもわからないじゃないの」  事実、知り合いのイラストレーターに声の高い男性がいて、 「はい」  と、出たら、男が、 「ああ、スーハー、スーハー」  しはじめたそうな。 「女の部屋につながったと、思い込んでいるんだよ、向こうは。それだけでうれしいんだろうよ」  友人は言った。私はここに男女の歴然たる差を感じた。  私はつねひごろから、セックスしたい、セックスしたい、と思ってはいるのだが、だからといって、だれとでもセックスしたいわけではない。むろん、だからといって『ロミオとジュリエット』のようなドラマチックな恋の果てにしかセックスしてはいけないと思っているわけでもない。頭が悪くて性格が薄っぺらで長身で歯並びのいい男としたいという限定がある。これがかなりな障害となってはいる(せっかく長身で歯並びのいい男がいたと思ったら、残念なことに知性的で性格がよい。やっと長身で歯並びがよくて頭が悪い男を見つけたと思ったら、私を嫌いだと言う)。  しかし、男はセックスしたい相手が、女にくらべて、ものすごーーーーーーく、広いのだ。女には想像がつかぬほど広いのだ。  なものだから、電話をかけた先が、性別=女、というだけで、満足できるのではないだろうか。性別=男でも声で女だと思えたら満足できるのではないだろうか。 「ああ、女の部屋にこんなヘンタイじみた電話をしているぼくっていやらしい」  という思いで興奮できるのである。  女にとって重要なのはWhoだけれども、男にとって重要なのはHowなのだ。 「もしかしたら、すっごいブスな女の部屋につながっているかもしれない、ってなんで思わないのかなあ?」  という疑問は、男には、とりわけ、ワイセツ電話や下着ドロをするような男には、いっさいおこらないのである。いわば、根っからのポジティブ・シィンキングなのである。  でもね。人生、すこしは猜疑心《さいぎしん》を持ったほうがいいと思うよ。 「今度、スーハー電話がかかってきたらこのテープを聞かせてあげよう」  私は、電話機のそばに『詩吟・本能寺』のテープをスタンバイした。  あんなに猜疑心の強かった織田信長でも明智光秀に足元すくわれるんだからね。人生はキビシイのよ。 キャッチホンのお待たせ音はむなしい  便利そうで不便なもの、それはキャッチホンだ。 「お話し中の電話にもつながります」  というのが、そもそものうたい文句であったが、要は割り込み電話機能である。 「ぼくはキャッチホンだけにはしない。あんなに失礼なものはないから」 「キャッチホンほど腹がたつものはない。話が重要なところに入ったときにかぎってあれが邪魔する」  こんなふうなアンチ・キャッチホンの意見をたびたび見聞きする。  もちろん、 「急いでいるときに何度かけてもつーつーつーつー、あれほどイライラさせられるものはない。キャッチホンというのができてほんとによかった」 「用件電話とおしゃべり電話と、ちゃんと用途別にわけて使えるからキャッチホンはすごく助かってる」 「家族で電話を使ってるからキャッチホンじゃないと困るわ」  というキャッチホン支持の意見もある。  私はというと、実家に病人がいるため緊急連絡が入るかもしれないからという動機でキャッチホンにしていた。  しかし、便利そうで不便なんである。ほんと。  たとえば、A社から原稿の内容について問題点を指摘されているところだとする。微妙な表現についての微妙なニュアンスを説明しているところだとする。相手も微妙なニュアンスを説明してくれているところだとする。  そこにキャッチホンが入る。  相手の熱心な声をさえぎって、 「ちょっと待って」  とはそうそう言えない。そのまま話をつづける。が、ツッツッツッツッと、あの�キャッチホンが入ってきてます音�が耳ざわりで、相手の話に集中できなくなる。  もうしわけない気持ちいっぱいで、 「ちょっと待ってくださいね」  と言い、割り込みの相手に代わると、相手はまたB社からの原稿依頼だったりする。B社の人は、 「はじめてお電話させていただきました。こちらの電話番号はC社の○○さんからお訊《き》きいたした次第です。わたくしは雑誌△△の××と申しまして……」  と、まず礼儀正しいご挨拶《あいさつ》からはじめるので、こちらとしては、 「すみません、電話中なんです」  と伝えるタイミングを逸してしまう。ハラハラしているから用件がよくわからない。やっと電話中であることを告げて、あわてて、A社の人に切り換えて、待たせたことを心苦しく詫《わ》びる。  と、A社の人はすっかりシラけてしまっているため、また話は最初からやりなおし……。  こんなことがキャッチホン・シーンにはたびたびある。  耳ざわりな音を無視したとしても、割り込みしている人には話し中だという音がしないから、留守だと思われる。もう一回、別の日にかけてくれても、なぜかそういうときにかぎってまた別の人からの電話を受けてたりして、また留守だと思われる。  人間とはおかしなもので、わずか二回、そういうことがあっただけで、 「姫野さんのところはいつも留守だ。その上留守番電話にもなってない。もう、この仕事の依頼はやめよう」  と思ってしまうものである。  でまた、人間とはおかしなものでこっちはこっちで、 「無視したあの電話は、もしかしたらとんでもなく高い原稿料の仕事の依頼だったのではないだろうか」  などと思ってしまう。  これというのも、割り込みサイドに聞こえる呼び出し音も、通常の呼び出し音も、 �つるるるるっ、つるるるるっ�  という同じ音だからだ。  もし、割り込みサイドに聞こえる音が、たとえば、 �つるん、つるん、つるん�  みたいな別の音であったなら、割り込みサイドも自分が割り込んでいるのだな、と心がまえができるのに。  急用でないなら3回くらいで切り、急用なら手短に用件だけを言うだろう。ハイテクを誇る日本の技術をもってしてもキャッチホンの呼び出し音を変えることはそんなに難しいことなのだろうか? 「電話くらいでそんなに気にすることないのに」  そう言って肩をたたく人もいる。  そういや、こんなにキャッチホンに気をもんでも、私は相手からいとも簡単に、 「あ、ちょっと待ってね」  と、20分くらい待たされることが、よくある。あのときの、キャッチホンの、 �つるるるっ、つー。つるるるっ、つー�  というあのお待たせ音のむなしさよ。  いつの日か、私が割り込んで入り、 「待ってる人だいじょうぶなの?」 「いいよ、待たせとけば。君の電話のほうがぼくにとっては大事だ」  と、花恥ずかしいことを言ってくれる人が見つかりますように………………………………………………。…………………の長さに微妙なあきらめのニュアンスをこめた。 ニューヨーカーの皮をかぶった関西人  先日、ニューヨークから電話があった。高校のときの一年上の友人で、彼は今、マンハッタンに住んでいる。  ニューヨーク! 男ともだち! マンハッタン!  書いてみるとなんという華やかなイメージだろうか。われながらうっとりする。坂本龍一と村上龍の世界のようだ。 「ハーイ、お元気? 久しぶりじゃないの。私のフェイスなんかもうフォーゲットしてしまったんじゃないの?」 「オー、なにを言ってるんだい。ユーのことをフォーゲットすることなんか一日だってないよ。ハイスクール卒業以来、一度も。ネバー、ネバー」  と、思わずこんな会話をかわさなくてはならない気分になってしまう。  しかし、私は関西人であり、高校のときの友人であるから、彼もまた関西人なので、 「なんや、びっくりするやんか。元気でやってはるのん?」 「ぼちぼちやな。そっちはどないやねん。本は売れたるのかいな。紀伊國屋《きのくにや》のニューヨーク支店では見かけたで」 「あかへんわー。今の日本人、小説なんか読んでくれはらへんねん。だいいち本ちゅうもんを買わはらへんねん。ちょっとマンハッタンで宣伝しといてえな。頼むわ、なあ、社長〜」 「頼むわ〜、ちゅわれたかてやなあ、わいが一人で宣伝してどうなるちゅうねんな」 「いやあ、一人でええさかい売れたらええと思てるねん。社長、なあ、なんとかしてえなあ〜」 「あかん。社長、社長ておだてたかて、あかへんもんはあかへんがな」 「いやあ、いけずやわあ」  と、真相はこんな会話なのである。  彼と私は、高校時代の地理の先生が、 「あいつ、ごっつう、どアホやったで。ムカついたわー」  とか、体操部のナイトウメグミさんが、 「いやあ、あの子はごっつうべっぴんやったけど、わいは好みとちごたわ」  とか、国際電話であることも忘れて、えんえん4時間もしゃべってしまった。 「げーっ、こないにしゃべってもた。これやったら飛行機の切符が買えたでー」  海の向こうで青ざめているであろう彼の声。  長国際電話で笑ったのは、彼が小説家の吉本ばななさんのことを、 「なんやて? その人は吉本興業の社長の娘かいな」  と、訊《き》いたことである。  大学を卒業するなりすぐ渡米。今はニューヨーカーでも、やっぱり血は関西人だ。 ただ、あなたの声が聞きたくて �つー、つー、つー、つー�  話し中の、あの音はだれもが一度は耳にして、だれもが一度は、 「くそっ」  と舌打ちしたことがあるはず。  さしたる急用でなかったにもかかわらず、この音が聞こえてくると、なんだか妙に腹立たしいものだ。 「ったく、ユカリったら長電話して。どうせくだらない話してるんだわ」  などと、自分だって、くだらない話、をしようとして電話したくせに、それを棚にあげて腹立たしくなるのが、 �つー、つー、つー�  だ。  これはなぜかと考えるに、たぶん「運」とか「縁起」とか、そういった次元で腹を立てているのだろう。「朝からサンダル紐《ひも》が切れるとは縁起の悪い気分」「お、茶柱がたっとる。こりゃいい気分」みたいな次元に似た腹立たしさ。  とくに、電話をかけた先が気になる異性であったりすると、 �つー、つー、つー�  は、いかにも無慈悲な音に聞こえる。 「だれ? だれ? だれと話しているの?」  まるで刑事のようにさぐりたくなる。  こうした苛立《いらだ》ちを解消するために発案されたのがキャッチホンなんだろうが、あれは恋愛シーンには無粋なものである。 �つー、つー、つー�  この無慈悲な音のせつなさが恋愛中には、またよかったりするのではないだろうか。  声が聞きたいと、用事もなく、ただ声だけでも聞きたいと思ったときに番号を押す。  とてもあやふやな、とてもおぼつかなげな「運」や「縁起」をたよりに押してみる。そのあげくが、 �つー、つー、つー�  だ。 「ううむ。せつないねえ。ロマンスだね。ドラマだねえ。いいぞ、いいぞ」  と、少なくとも私は思い、ずいぶん小説中に、この音を小道具に使っていたのに、それなのにキャッチホンなんか普及しやがって。  これでは相手にも、 �つー、つー、つー�  を、聞かせてやることができないではないか。  無慈悲な音を大好きな相手に聞かせてやりたい意地悪な気分にもなるのが、はてさて恋というものではないか。  キャッチホン、無粋だ。 公衆電話は頼りになるお姉さん  公衆電話が「頼りになるお姉さん」に見えたことがあった。  セーラー服を着ていたころだ。中・高校生のころ、公衆電話を使うといえば、その目的はほとんどひとつしかなかった。好きな男の子のところへかけること。  私がセーラー服を着ていたころは、電話は家に一台しかないのがふつうだった。平成のティーン・エイジャーのように、コードレスの子機を自室に持ち込めはしなかったのだ。  家にはうるさいうるさい親がいて、自由に電話をかけられない。  さしたる用事があるわけじゃない。でも、かけたい。でも親がうるさい。でも、べつに聞かれたところで困るような危険な会話をしたいわけでもない。でも親がいるところからはかけられない。でも、かけたい。 「今日は雨で桜が散っちゃったね」  これくらいのひとことを言いたいだけのために、えんえん三時間くらい悩んでいたものだ。  そんなとき、公衆電話が、 「わたしがかけてあげましょうか」  と、言ってくれているように見えた。頼りになるお姉さんに見えた。  セーラー服を脱いでからずいぶん年月がたったけれど、今でも、街の公衆電話ボックスに、制服を着た女の子が三人くらいで入っているのを見かけると、何をしているのかが、まるでわがことのようにわかってしまう。応援してあげたくなってしまう。  でも、不倫している男にとっても、公衆電話って「頼りになる兄貴」に見えるんだろうな、と、同時に考えがおよぶようになったところが、 「ああ、年とって不純になったわ」  と、思う。  それとも小説書きの職業病か。 電話でKISS  ものは何でも使いよう。  とは、よく言ったものである。電話も使いようによっては暴力になる。  なにもイタズラ電話だけのことを指しているのではない。親しい友人同士の電話だって、ときとしては暴力になる。  たとえば、ここにA子とB子とC子とD子という女性がいるとしよう。  A子はある日、恋人とささいなことでけんかした。そのグチをB子に聞いてもらいたくて電話した。 「ほんとにグズなんだから。大嫌い」  ほんの軽いうさばらしで言っただけだった。グズ、というのはもちろん、A子の彼氏のことを指している。  ところがそれがB子の神経を逆撫《さかな》でしてしまった。 「私は要領よく世の中を渡っていくことなんかできないわ」  B子は突然泣きだした。この二週間というもの、彼女は会社内でのトラブルでとても精神的に疲れており、グズ、という語が、A子のこめた意味よりはるかに強く胸に突き刺さったのだ。たとえ、それがA子の彼氏のことを言っているとわかっていても。  こんな食い違いが、電話ではよくある。  表情が見えず、間をとっている雰囲気も伝わらないから「ことば」に対する各々の感覚の相違がもろに出てしまうのだ。  ある日、D子からの電話を受けたC子。C子は待ち合わせの時間に遅れそうなときの電話だった。 「あのさ、とりたてて用事じゃないんだけどね……」  D子としては、以前、C子とのあいだでかわした会話が妙にひっかかっていて、それを角をたてることなく話したい気分で電話したのだった。しかし、 「悪いけど、切るね」  C子は急いでいて、急ぐあまりにそう言っただけだった。急ぐあまりに、 「きゃー、ごめんねー、今ねー、待ち合わせの時間に遅れそうなのー」  と、説明することを忘れてしまった。それくらいあわてていた。だが、D子には自分を拒絶されたように聞こえた。  A子もB子もC子もD子も、それぞれどこも悪くない。無神経でもない。しかし、時と場合を見えなくする「電話」というメディアに責任があるだけなのだ。  電話とはこうした危険をはらんだメディアなのである。  その反面、A子がどことなく人恋しさを感じているときに、 「べつに用はないんだけどさー」  B子からかかってきたりすると、電話は、瞬時にしてたのしい時間を与えてくれる現代ならではのハッピー・マシーンとなる。  車や電車に乗らずにすみ、洋服も着替えずにすみ、帰途のことを気にせずに、瞬間にして、話ができる。しかも、だれにもじゃまされずに。 「なんでも電話ですませてしまって、現代人は手紙を書かない」  嘆く人もいるけれど、声がすぐに聞ける電話というメディア、やはり捨てがたい魅力がある。  だから、ものは何でも使いよう。電話はやさしくキスもするけど、ビンタもくらわす道具だということを忘れないようにしないと。 奇妙な切望  私はよく電話を待っている。  電話機をじっと見て、 「かかってこい!」  と、願っていることがある。  ところが、だれからの電話を待っているのかわからない。  それは奇妙な切望である。  あるひとりの、  だれか、  からの電話を待っているのだ。  こう言うと、たいていの人は、 「恋人からの電話を待っているのですね」  と、思う。  そうではない。  それでは奇妙な切望ではないだろう。  よくおぼえておいてもらいたい。  私には恋人がいない。  過去にもいなかったし、現在もいない。  信じないならかまわないが、女の小説書きは二分される。半分はものすごく男に縁があり、あとの半分はまったく男に縁がない。微塵《みじん》だにない。私は、あとの半分、のほうである。  だから、私が待っているのは恋人からの電話ではない。恋人だった人からの電話でも、もちろんない。 「それじゃあ、片思いの人からの電話?」  つぎに、人はこう思うかもしれない。  ところが、私には片思いの人もいない。 「いったいだれからの電話を待っているのだろう?」  自分でもまったくわからない。  それなのに、私にはあきらかに、 「ある一人からの電話を待っている」  という気分だけが先行するのだ。  もしかしたら自分自身を待っているのかもしれない。  恋人と電話しあうような日々を送る自分を待っているのかもしれない。  そんな日々は想像すらできなくて、ただ、電話機に向かって、 「かかってこい」  と、願うのだろうか。 Callの回数≠愛情の深さ  電話をかけてきてくれる回数=愛情の深さだと思っていたころがあった。 「もっとも頻繁に電話をかけてきてくれる人が、もっとも自分のことを好きでいてくれる人」  なんだかしらないが、こんなふうに思っていたころがあった。 「好き」といっても、なにも恋愛感情の「好き」にかぎらない。とにかく自分の存在が相手にとってどれほどのものか、それを数字にすると電話をかけてきてくれる回数に匹敵するのだと、思っていたようなふしがあった。  けれど、当然ながら、そんなことはないのである。  電話が好きな人もいれば、嫌いな人もいる。電話が好きな人は、相手がだれであろうが電話をするのだ。だって電話をするという行為が好きなんだから。  そういう人は、AさんにかけてAさんが不在だったらすぐにBさんにかける。Bさんが不在だったらすぐにCさんに。  ようするに電話でおしゃべりがしたいわけである。電話でしゃべる、という行為はすごく自己満足かつストレス発散の要素が濃い。  そこで、最近、ふと思ったのだが、よく口説く男というのもこれと同じじゃないかと。そういう男は女がそばに来れば口説くのではないかと。  Aさんを口説いてダメならBさん。BさんがダメならCさん……と、彼には好きな女などいないのである。AさんもBさんもCさんも全員同じなのである。口説くのが好きなのである。 「そんな男に口説かれてもうれしくない」  という結論が、当然、出る。  しかし、さらに私は思った。男という生物が、元来、こういうものなのではなかろうかと。  無責任で小心で浮気症でだれでも口説く。相手はだれだってかまわない。こういう生物をして男と呼ぶのではなかろうか。  もちろん、こうではない人もいる。だが、こうではない人はすでに男ではなく、女には映るのではないか。中性として映る。中性同士のつきあいは長つづきして深みもあり、いいものだと思うが恋ではなかろう。やはり恋をしようと希望するなら性格が薄くて知的ではない人を探さないと。だが、恋をしようとまず希望するところが、すでに恋の対象となりえる存在ではなくなっているので、ホント、恋愛できるってのは才能ですね。 便利で不便なファックス  ファックスの個人ユーザーではない(自宅にファックスを持っていない)人は、今のところ、わりに多い。もっぱら会社のファックスだけを使う人。  こういう人は、えてして、ある重大な事実を忘れがちである。  重大な事実、それは、 「ファックス用紙は無限ではない」  ということである。  ファックスはご存じの通り、機械に専用の感熱紙を入れて受信する。一本が、細いもので千円近くする。  ファックスするということは、相手の感熱紙を使うということを、会社でしかファックスしたことのない人はどれだけ心にとめているだろうか。  会社のファックスは、感熱紙がなくなれば庶務担当者が補充してくれるだろうが、個人ユーザーは文具店まで買いに出かけて、お金を出して、補充しなければならないのである。  しかも、個人所有のファックス機械はたいてい小型だから、紙も小型ロール。頻繁に買い換え、補充する必要がある。会社のファックス送り状専用用紙に、 「この用紙をのぞいて一枚送信します」  と書かれたファックスが来て、なにかしらと待っていると、大きな紙のまんなかへんに一行だけ、 「今日は編集部には戻りません」  と、書いてあると、とんでもなくムダでもったいないと思われてならない。  いつだったか、出版社から原稿依頼を受けたとき、担当さんが、 「資料を送りますね」  と、ファックスしてきた。それが百科辞典かなにかからのコピーで、何枚も何枚も何枚も何枚も何枚もある。 「ああ、紙が、紙が、紙が……」  ハラハラしながらファックスの前に立っていたものだ。これ、なんと十九枚もあった。また、べつの知人は、ある日、会社のファックスで送信してきた。 「ぼくも小説を書いてみたので読んでくださいね」  一枚目に書いてあり、ギクッとしていると、これまた洪水のようなファックスだった。 「お願い、とめて、とめてー」  私はファックスの前で十字をきったくらいである。  急ぐ必要のない大量資料や自作の小説など、本来、郵送すべきものまで最近はファックスを乱用している気がする。  とはいえ、ファックスはたいへん便利である。この機械のおかげで書くほうはぎりぎりまで締切りの時間をもらえる。一般企業の人だってずいぶんと便利になったことだろう。  ビジネス以外にも、この機械は魅力を発揮する。  ファックス・レターってやつ。これは、すごくいい。電話ほど相手の状況にいきなり入り込むことなく、かといって手紙のようにあらたまったり堅苦しかったりすることなく、気軽にコミニュケーションがとれる。漢字がまちがっていたってファックス・レターならご愛嬌《あいきよう》だ。感熱紙に書いた文字は時間がたつと消える。そんなところもいい。 【文庫版特典・感想】  この項は某生命保険会社のPR誌に寄せたものだが、当時は本当にまだファックス機の個人ユーザーは少なかったのである。それが今ではファックスどころかパソコンが普及してしまい、Eメールの時代となった。Eメールは気軽で、なおかつ相手の時間の都合にあわせられる。けっこうなことだが、その人の肉筆を目にする喜びがないのがさびしいね。 疑惑の電話  電話をかけるとき、もしかしたらあなたは、 「もしもし、○○さんのお宅でしょうか」  と、最初に切りだしていませんか?  これ、実はまちがいなんですね。  電話をかける場合には、 「もしもし、××と申しますが、○○さんのお宅ですか?」  と、まず最初に自分の名前を告げてから相手方を確認するのがマナーからすると正しいのだそうです。  なぜなら、電話とは、そもそもが失礼なものです。呼び出し音ひとつで、いきなり個人宅に上がり込んでしまうのと同じ行為をしでかすわけですから。  いきなり上がり込んでおいて、 「あんたは○○さんかね?」  と、尋ねるのが無礼か無礼でないかは、明白でしょう?  けれども、私の場合、会社に属していないので、 「姫野と申しますが、○○さんをお願いいたします」  と、切りだすことになります。と、 「どちらの姫野さんですか?」  と、聞き返されることが多いんですね。とくに相手が若い自由業者で、個人宅が連絡先になっていて、その人の奥さんが電話に出た場合、ほとんど、  疑惑、  の口調のときがよくあります。  そこで、どこの姫野だと言うべきか迷っていると、 「もしもしっ、どちらの姫野さんっ?」  さらに奥さんの口調がキツくなる。  で、あわてて、 「ただの姫野です」  と、まぬけな答えをしてしまうことが、以前はよくありました。  最近では、 「目黒区の姫野ですが」 というのを使うのですが、これもまぬけですよね、なんとなく。 土曜と日曜は電話定休日  土曜日と日曜日。  それは多くの人にとってはたのしい二日なのだろうが、私には地味に沈んだ二日である。  土曜日と日曜日。私の電話機は死んだようになる。ルンともピッとも鳴らない。 「生きてるのかしら」  耳を電話機に当てて息をしているのかどうか、たしかめることすらある。  多機能電話機なのだから、緑やオレンジのなにかのパイロット・ランプがついているわけで、それを見ればべつに故障していないことくらい明白なのだけれど、 「生きているよね」  と、耳を電話機に当てる。それほど土曜と日曜というのは電話がかかってこないのである。  というのも、出版社は土・日が休みである。編集者からの電話はない。  となると、私の場合、電話をかけてくる人間は存在しなくなるのである。  友だち。  そんなものは、私くらいの年齢になれば、みな、結婚して子育てにおおわらわだし、おおわらわでなくとも、土曜と日曜は家庭|団欒《だんらん》の日なのである。  恋人。  そんなものは前からいない。 「ひとりなんだなあ」  つくづくと独身ということばが身にしみてくる週末。  気分転換にラジオをつければ、そんなときにかぎって『恋におちて』がかかったりする。しかも、 ♪土曜の夜と日曜の〜♪  という、あの有名な箇所が、つけたとたんにスタンバイしてたかのようにばっちり流れてよけいに気が滅入る。  べつに不倫していなくても、がむしゃらに仕事している一人暮らしの、恋人いない歴30余年の正真正銘独身女にとって、土曜と日曜はさむざむしいものである。  フランスだかドイツだかの諺《ことわざ》に、 「夜になると不安になる人は、昼間にも不安を持っている人である」  というのがあった。  土曜と日曜にさむざむしくなる者は、ウィーク・デーにもさむざむしいものを持っているんでしょうか。 「御会談」にラブホテルはいかが?  8時間50分。これは最長電話時間記録である。一度や二度ではない。さすがに8時間台はないが5時間ほどの電話は春夏秋冬に一度ほどある。ただし、平素はめったに人と話すことがない。  本当は電話は嫌いなのである。表情がわからない。考えている時間が沈黙になってしまうからおいそれと休憩さえできず、こわれた水道のようにことばを出しっぱなしにしなくてはならない。すると、お互いの「ことばのニュアンス」に対する「感覚のちがい」が露骨に表面化する。こちらが良い意味で言ったことばも相手には悪い意味に聞こえる場合も多々生じる。危険な機械ではある。それなのに長電話をする最大の理由は、都市の飲食店がやかましすぎるからである。BGMの音量が大きすぎて頭が痛くなることさえある。 「日本人は会話をたのしむということをしないのでしょうか?」  外国人の知人に質問されたことがあったが、ホイットニー・ヒューストンの歌が窓ガラスが振動するほどの音量でかかる店において私が彼らのことばを聞き取るのが、どれほど困難であったか。心苦しくなるくらい何度も何度も私は彼らに聞き返さねばならなかった。あながち私の語学力の低さによるものではないはずだ。言語ではなく、声そのものが聞こえないのである。また、仮に静かな店であっても他の客がいる。べつに国家機密にかかわる話でなくても、スキャンダルめいた恋愛話でなくても、第三者がそばにいないところで話したい内容のこともあるではないか。 「それならお部屋で話せばいいでしょう」  そう言う人は恵まれた住宅環境を与えられている。六畳一間が仕事部屋を兼ねている私の部屋は紙と本とフロッピイとワープロと食器と布団《ふとん》等々が地雷のごとくにつめこまれ、日々|是《これ》アクロバット生活。こんな部屋を見せるのが恥ずかしいといった意味ではなく、物理的に一人が定員なのである。 「じゃあ、相手の部屋に行けば?」  これもまず無理である。相手が結婚している場合は配偶者や乳飲み子に迷惑がかかり、独身だと私と同じような住宅事情である。たとえ独身のその人が会社勤めで、部屋が仕事場を兼用しておらずとも、一間しかないところへはなかなか他人に入り込んでもらいたくないと思う(いくら親しい友人であっても)。 「今度の小説のことでゆっくり話がしたい」  編集者から言われるたび、私は、 「ホテルに行きませんか?」  喉元《のどもと》までこのことばが出そうになる。ラブホテルの看板にはちゃんと『御会談に』という表示も出ているではないか。予約も要らず廉価で静かに話ができる。8時間50分の電話をした相手は女性であったが、ラブホテルで会って話せたならどんなによかっただろう。  しかし、実際には、ホテルに行きませんかという提案は間違って相手に伝わるであろうから、やむをえず私は長電話をしているわけである。困ったものだ。 留守録の理想的な使い方  留守番電話って嫌う人が多いようだが、なんでかな?  私はキカイ相手って、けっこう好きなのだが。自動販売機とか自動振込機とかビデオ録画セットとか。電話も、留守番テープに吹き込むほうがいちいちニンゲンとコンタクトせずにすむから、用件がさっさとすんでいいじゃない?  留守電に用件を吹き込んでおく。また、相手からも留守電に吹き込んでおいてもらう。これだとニンゲン同士は直接にコンタクトせずにすむ。時間が節約できる。 「えー、そうお? 留守電って、やっぱ話しづらいよ。こみいった話のときなんか」  留守電を嫌う人は、よく、こう反論するけれど「こみいった話」なんか、ほんとは世の中にそうそうあるもんじゃなくて、たいていのことは留守電に要約して吹き込めるはずだと思うんだけどな。 「そりゃ、仕事とか事務的なことはね。でも、友だちとちょっと口論になっちゃったときなんか……なんとなく……冷たいっぽいみたいなとか考えちゃったりとか……」  とか。みたいな。とか。みたいな。っぽい。ってかんじ。このアイマイ語多用の反論がすでに要約されていない。  気持ちはわかるよ。でも、友だちとの口論だって、ほんとは要約できるはずなのよ。それは自分が一番わかってるはずなのよ。要約することは自分の心を正視することだから、それが怖いんだろうね。怖いけど、やってみると、なんだか頭がすっきりしたりする。  そのうえで、 「昨日はごめんね。言い方が悪かった」  って、直球でもいいし、 「もしもし。今日は道で五百円玉を拾ったのでよかったです」  なんていうカーブ球でもいいから、留守電に吹き込むと、ニンゲンとニンゲンの間にキカイが入っていてくれることで、逆にニンゲンとニンゲンの関係がらくになったりするんです。そういう点、キカイってかわいいとこあると思う。 ㈽ 恋愛の真実 Love and sex 想いが届く、明日を信じちゃいけないよ ♪心配ないからね きみの想いが  だれかにとどく明日がきっとある  どんなに困難でくじけそうでも  信じることを決してやめないで  どんなに困難でくじけそうでも  信じることさ かならず最後に愛は勝つ  かならず最後に愛は勝つ♪  これが『愛は勝つ』の主要歌詞である。  これは、なんというか、なんちゅう歌だ。 ♪信じることさ♪ ♪かならず最後に愛は勝つ♪  何度、歌詞を見直しても、これは、なんというか、なんちゅう歌だろうか。  お経。  お題目。  祈祷文《きとうぶん》。  ほとんど、こうした類のものである。 「ほんとの神様ただひっとりー、みっなさんはやく信じっましょっ」  というリズミカルな賛美歌を、私は日曜学校で歌ったおぼえがある。 「たーだ信ぜよーおおおう、たーだ信ぜよーおおおう、信ずるものはたーれも、みーな救われん」  という元気な賛美歌も歌ったおぼえがある。 「悪しきをはらい、たーすけたーまえ○○教」  という新興宗教の歌をうたっていたのは中学のときの同級生、フクナガくんだ。では、 「わたしの言うこと信じなさい、ほら信じなさい、ほら信じなさい」  という歌はだれの歌だったでしょうか?  というわけで『愛は勝つ』というこの歌、まるで宗教の勧誘歌のようなのだ。 ♪どんなに困難でくじけそうでも♪ ♪信じることを決してやめないで♪  ううむ。つくづく新興宗教がかっている。  岡村孝子という人の『夢をあきらめないで』も多分にこの傾向はあるけれども、しかし、あちらはメロディが叙情的なぶん、宗教は宗教でも、比較的古い宗教といった感じだ。『愛は勝つ』のほうは、行進曲さながらのドタバタ元気なメロディが、なにやら、南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》、南無妙法蓮華経と唱えているようで、南無妙法蓮華経と唱える宗教をいけないと言うつもりはさらさらないのだけれど、なにかこう、丸暗記的、鵜呑《うの》み的に、さながら、 「門前の小僧、習わぬ経を読み」  という雰囲気で迫ってくる。  では、私は宗教を否定するかといえば、答えは積極的にNOである。  宗教というのはどんな宗教であっても、それがその人の精神を安らかにするのなら、美しいものだと思う。本末転倒な形式先行の盲信状態になったり、強制的にさせたりするのはおかしいと思うけれど。  なものだから、私は岡本孝子の『夢をあきらめないで』も『ケ・セラ・セラ』と同一線上で好きである。『ふるさと』で安らかな気分になる人もいるだろう。『愛は勝つ』で、明るい気分になる人も大勢いると思う。  ただ、この「愛」というのを「恋愛」にだけかぎっていえば、 ♪きみの想いがとどく 明日がきっとある♪  なんて、嘘《うそ》ですよ。こんなことぜったいに嘘ですからね。 「嫌いなものは嫌い」  恋愛とはこういうものです。 「だって好きなものは好きなの」  恋愛とはこういうものです。  いくらあなたが好きでも、相手はあなたのことを好きとはかぎらない。嫌いなら、永遠に嫌いです。 「そんな、そんな。そんなミもフタもないじゃないの」  この本を読んでくださっているあなたがもしティーンなら、こう思われるかもしれませんが、中学や高校の若いみそらで、 ♪最後に愛は勝つ♪  なんて肌身にたたきこんだら、のちのち悲しいめにあうだけだから、早いうちに救済してあげるのが年配者のつとめ。  あなたがAくんを好きだったとしましょう。 「Aくん、好きです」 「ぼくも」  こう進展する場合は問題ありませんが、Aくんがあなたに、 「いや、ちょっと……気持ちはうれしいけど」  なんてことを答えた場合、悪いことはいわない。 ♪想いがとどく 明日がきっとある♪  なんて、ぜったいに思っちゃだめですよ。だめだめ。ぜったいだめ。  だってね、では、あなたのことを好きだと言ってくれているBくんのことを考えてみてよ。  Bくん、いい人だよ。やさしいし、思いやりがあるし、あなたにとっても気をつかってくれてるじゃないの。どうしてBくんを好きにならないの? 「それは……よくわかるんだけど……だって私はAくんに恋しちゃったんだもん」  でしょう?  Aくんからすれば、あなたがBくんなわけですよ。  理屈じゃないんです。恋愛は。  肌と肌との、もっといえば息と息との、  波長、  なのだから。 ♪わたし待つわ いつまでも待つわ♪  って、またまた岡村孝子さんをひきあいに出しますが、こんなことをされたらひとこと「メイワクです!」  ですから、そこのところ、よおく胸に刻んでおきましょう。  かりに、あなた、いつまでもいつまでも待っててごらんよ。15、16、17……50歳まで待つわけ? こんなことしてたらセックスもしないまま生理もアガっちゃって、 ♪私の人生 暗かった〜♪  と、藤圭子さんになっちゃうよ。古くておぼえている人すくないだろうけど。  だってね、私自身がこうなりかけてるんです。だから言うの。私こそ、 ♪想いがとどく 明日がきっとある 最後に愛は勝つ♪  と信じて生きてきたんです。  でもミッシェル・ポルナレフにとどくことなんかなかった。「愛してる! 愛してる!」と、本人に、伝えたけど、とどかなかった。ポルナレフは特殊例としても、○○さんにとどくこともなかったし、××さんにとどくこともなかったし、△△さんにとどくことも□□さんにとどくことも、なかった。  これっっっっぽっっっっちも、なかった。  それなのに、デカい尻《しり》と小説を書くという職業のせいで、 「きっと百人くらいの男とセックスしてきているにちがいない」  と周囲からは思われてんのよ、こんな滑稽《こつけい》な話ってあるかなあ。  この歌を恋愛シーンでも信じたい気持ちはよくわかります。わかりますとも。  でも、信じてはいけません。私のようにみじめで滑稽で貧乏なロマンス人生を歩むことになる。 ♪別れても好きな人♪  のメロディで、 ♪フラれたら次の人♪  と、この心意気で生きてこそ、あなたのロマンス人生は花。花、花、花の花ざかり。がんばれ。  そういや『愛は勝つ』も、よくよく歌詞を読むと、 ♪きみの想い♪  が、 ♪とどく♪  のは、決して目下の意中の人だとは歌ってないんだよね。 ♪だれかに♪  って、歌ってる。ここがポイントですね。 モテル女の〓カラクリ  チヅコさん(仮名・以下登場名、みな仮名)という知人がいます。  チヅコさんはモテます。  細川さんも小沢さんも羽田さんも、チヅコさんにぞっこんで、私はいつも彼らの相談にのってあげなくてはなりません。  他人の恋愛の助っ人をするのは、たぶん、つまらないことです。  細川さんから、チヅコさんがいかにすてきな女であるか、えんえん6時間も電話で聞かされることは、たぶん、つまらないことです。  小沢さんから、チヅコさんは、私とちがってどんなに魅力的であり、ぼくは彼女がかたときも忘れられないと、えんえん5時間も喫茶店で泣かれるのは、たぶんつまらないことです。  羽田さんから、チヅコさんとどうしたら結婚できるか、いろいろな策を、えんえん7枚もファックスで送ってこられるのは、たぶん、つまらないことです。  こんなことは、ほんとに、たぶん、つまらないことなんでしょうが、私は成人してからずっとモテない人生であったし、あまりに長く、 「他人の恋愛相談にのる役」  というキャラクターを引受けつづけてきたので、そこからもはや逃れられないのです。ちなみに、  細川さん=41歳。  小沢さん=29歳。  羽田さん=19歳。  です。そして、  チヅコさん=42歳。  です。 「えっ、42? 42歳の女がなんでそんなにモテるの?」  と、この本を読んでくださっているあなたは思われるかもしれません。でも、モテるんです。細川さんがあんまり悩むので、私は女子大生を紹介してあげると言ったのですが、「話があわなそうだから、いらない」の一点ばり。 「じゃあ、42歳といっても、きっと阿木耀子とか吉永小百合みたいな顔かしら」  この本を読んでくださっているあなたは思われるかもしれません。でも、そういう外見ではありません。  阿木さんも吉永さんも卵型の顔の輪郭ですが、チヅコさんは極端な野球のホームベース型です。阿木さんも吉永さんも眼がぱっちりしていますが、チヅコさんは眼が細く小さいです。阿木さんも吉永さんも鼻すじがとおっていますが、チヅコさんは鼻が低くて鼻の穴が上向きぎみです。阿木さんも吉永さんも歯並びが揃《そろ》っていますが、チヅコさんは前歯が不揃いな差し歯です。肌にはにきびの痕《あと》が一面に深く残っています。阿木さんにも吉永さんにもチヅコさんの顔は似ていません。  チヅコさんはバツイチで子供が二人います。小学生と中学生。 「えっ、バツイチでコブツキで、なんでそんなにモテるの?」  あらためて、この本を読んでくださっているあなたは思われるかもしれません。でも、モテるんです。 「結婚したら、19歳でいきなり二人のお父さんになるんだよ」  と、私が羽田さんに言っても、 「チヅコの子供までかわいくてならない」  のだそうです。  チヅコさんは身長154センチ。体重39キロ。 「ガリッガリッなんだよな。病気みたいに」  細川さんは眼を細めて言います。チヅコさんはバスト72。ウエスト70。ヒップ82。 「皺《しわ》がすごく多いから、42歳には見えないな。50歳くらいに見えるかも」  小沢さんは眼を細めて言います。チヅコさんの髪は半分白髪です。 「乳首が黒いんだよね。安心感のある乳首って気がする。髪は白髪だけど、身体は毛深くてね。筋ばっている。情が濃いって気がする」  羽田さんは眼を細めて言います。チヅコさんはそんな外見の人です。 「…………」  この本を読んでくださっているあなたは、すこし考えをまとめなおそうとなさっているかもしれません。そして、 「そうねえ。きっと母性的な感じがするんじゃない? きっとお母さんみたいに、いたれりつくせりでめんどうみのいいところが男の人にはグッとくるんじゃない?」  と、思われたかもしれません。あなたが思ったようなことは、私もだいたい思ってみたのです。でも、 「すっごくワガママで気性がはげしいんだよね。男にもだらしなくて、その日に出会ったやつとその日のうちにデキてしまったりしてさ」  と、細川さんも小沢さんも羽田さんも言うのです。  どうです? このあたりで頭がクラクラしてきませんか?  実際よりずっと老けて見える42歳で、皺が多くて、髪が半分白髪で、ガリガリでずん胴で毛深くて筋ばってて、子供が二人いて、バツイチで、ワガママで気性がはげしくて、男にだらしがないチヅコさんです。 「じゃあ、じゃあ、きっとすごいお金持ちなんでしょう。有名デザイナーとか、高級ブティックの社長とか、女医とか」  と、この本を読んでくださっているあなたは思われるかもしれません。加えておきましょう。チヅコさんは無職です。前の旦那《だんな》さんからの仕送りと、スーパーのパートに出て暮らしています。  そこで、上品なあなたとはちがう私は、最後の理由を思いつきました。 「こうなったら、ナニしかない」  下品にいやらしいことを考えました。きっと、肉体の下腹部の局部的な構造が優れているのだろうと。ところが、 「やっぱり、子供を二人産んでるせいか、ユルユルなんだけどさ……」  と、三人の男性のうち、だれだったかは忘れましたが、あるときぽろっと告白したのです。  つまり、チヅコさんは、ババアでバツイチでコブツキで、ブスでしわくちゃでスタイルが悪くて、ワガママで、気性がはげしく、貧乏で、だれとでも寝て、締まりの悪い女性です。これがモテて、モテて、モテるわけです。  で、小沢さんのことを片思いしている女性がいて、この人は私の学生時代の後輩だったんですが、小沢さんがチヅコさんに夢中なものですから彼女はフラれました。くわしく言うと、この人と小沢さんが親しくなりだしたころにチヅコさんが出現してフラれました。  この人は、25歳で某食品メーカーの社長令嬢で処女で、外見も雰囲気も西田ひかるふう。この人がフラれて、モテるのはチヅコさん。  私はこの現実がどうしても納得できず、三人の男性からえんえんと相談を受けるのに疲れてきたこともあって、ある日、チヅコさんの家に行きました。 「細川さんも小沢さんも羽田さんも、それから西田ひかるちゃんだって、悩んでいるようだから、はっきりしてあげたほうがいいと思うのですが……」  私が言うと、チヅコさんは、 「そうねえ。私って、白髪は多いけど、すごく若く見えるでしょう? もう落ちつきたい年なんだけど若く見られて話しやすいらしいの。男の人って、美人よりかわいい顔を好くっていうから、私もかわいいってタイプの顔だったらよかったのにって、前は悩んでたんだけど。でも、パートなんかに出てるとやっぱり美人ってなにかと大目に見られてミスも許されやすいの。その点ではいまのパートもらくだしね。細川さんや小沢さんや羽田さんのことも、信じてほしいんだけど、私からモーションかけたわけではないのよ。向こうからなの。私ってやせてるでしょう。なんとなくほっとけないように思われるのかなあ、いっつも、私はなんにもしないのに、言い寄ってくる男の人が多くて、それでトラブルになっちゃうのよ。信じて。私からモーションをかけるわけじゃないのよ」  と、言いました。 「      」  私は返すことばもございませんでした。 「そりゃ、あなた、チヅコさんって人が特別な人なのよ〜。女にはよくわかんないけど」  と、あなたは思われるかもしれません。その日は私も、当然、そう思いました。 「きっと、女には嗅《か》ぎつけられないけど、男にはキャッチできる、なにか特別の異性をひきつけるニオイを持っているのだろう」  と。  ところが、チヅコさんの話を、A子とB子にしたところ、 「あ、私、この人と同じような人、知ってる」  と、A子。 「私も知ってる。同じようなケース」  と、B子。  二人ともそれぞれにチヅコさんのような人とそのラブ・アフェアを知っているというのです。  チヅコさんタイプの人に婚約者を略奪されて泣いている女の友人がA子にもB子にもいるのだそうです。  後日、この話を聞きつけたC子とD子が、 「えーっ、私もチヅコさんみたいな人を知ってるわ。その人に私の友人は夫を奪われたのよ」  と、言いだし、C子とD子の話を聞いたというE子さんとF子さんも、 「私も知ってる」 「私も」  と、言いだしそうです。  さらに、この後、ねずみ講のごとくに、 「チヅコさんみたいな人知ってるわ」 「チヅコさんみたいな人の事件、知ってる」  と、出てきて、その数は総計20例にも及びました。  全例とも、 「バツイチで子供のいる女に夫もしくは恋人を奪われた」  というもので、そして、奪った女の外見は全例とも、 「小柄でがりっとしていて乾燥肌で肌のきめが荒くて皺が多く前歯が差し歯で乳首が黒くてずん胴でO脚ぎみ」  です。  そのうえ、職業まで同じなのです。 「アーチスト」  です。このアーチストというのがくせもので、あるチヅコさんは「絵を描いている」であり、あるチヅコさんは「美術家」であり、あるチヅコさんは「ジュエリー関係」であり、一番すごいのは「哲学をしている」でしたが、要するに全チヅコさんとも、ご自分の言っていらっしゃるアートでは食べておらず、各々のチヅコさんの収穫物(=つまり男)が彼女の生活を援助しているのです。  私の知ってるチヅコさんもスーパーでパートをしているのですが、本人は「女優」だと言います。ときどき、高円寺のアルスノーヴァとかで演劇(のようなもの)をするからです。細川さんや小沢さんや羽田さんなどが援助をして、公演(のようなもの)の客は「知り合い」のみです。  男はなぜチヅコさんを好きになるのでしょうか? なぜチヅコさんは、こんなにも自信を持っていられるのでしょうか? あふれてあふれてこぼれて周囲もびしょぬれになるほどの、この自信は、なんなんでしょうか?  私は一年間、考えましたが、わかりません。結局、こういうゆるぎない自己への自信が異性をひきつけるのだろうということで、考えるのをやめてしまいました。  ただ、最近はアニメ『キャンディ キャンディ』の歌を聞くとむしょうに腹が立ちます。 ♪そばかすなんて 気にしないわ♪  くっそーっ、ちったあ、気にしろよ! ♪スタイルなんて 気にしないわ♪  てめぇ、頼むから、ちったあクヨクヨしてくれよー! *さらに半年後の考察*  やはりフェロモン(異性吸引力)の正体は「ゆるぎない自己への自信」であろうと思われます。これが強ければ強いほどフェロモン量は増します。それはどうしたら持てるか。すみません。わかりません。これが答えです。たぶん12歳くらいまで(あるいは18歳くらいまでと延長してもよいが)の環境がもたらすのでしょう。  チヅコさんなり、チヅコさんの男版なり、つまりチヅコ型人間というのは、 「とにかく自分に自信がある」  のです。  それは決して、 「私は美人だ(俺《おれ》はハンサムだ)」  と思っていることを意味しません。 「恋のかけひきをするに値する魅力、セックスするに値する魅力が自分にはあるのかどうかを疑ったことがない」  ということです。とにかく疑ったことがないので自信があるのです。なぜかはわからない。わからないけど、とにかく自信があるのです。これで一人寄ってくる。するともう一人くらい寄ってくる。これを元金にして複利まわりでどんどん自信が利殖するわけです。ビッグ&ヒットの恋愛女(恋愛男)とでも呼びましょうか。一時払い養老保険の恋愛人間、中国ファンド恋愛人間と呼んでも可ですが、難点は度がすぎると、 「もう、笑《わ》らかしてくれよるやんけー! ぶはーっはっは」  と、周囲から抱腹絶倒されたり、あきれられたり、バカ扱いされたりします。蔑視《べつし》されることすらあるでしょう。ま、バカ扱いされたところで本人の絶対王政的自信はびくともしないので幸せです。  ふつうの人はふつうの自信を持っていて、これを普通貯金にして堅実な出し入れをして恋愛をします。元金もゆうちょなら十円からオーケーですし、堅実にやりくりすれば確実に利殖します。これがもっとも幸せでしょう。  ところが、逆チヅコ型人間というのがいて、これはチヅコ人間とまったくさかさま。とにかく自分に自信がないのです。それは決して、 「私はブスだ(俺はぶ男だ)」  と思っていることを意味しません。 「恋のかけひきをするに値する魅力、セックスするに値する魅力が自分にはないのではないだろうか」  と、つねに、オールナイトアンドデイ、いかなるときも、たえまなく疑っているのです。なぜかはわからない。わからないけど、とにかく自信がないのです。これで一人逃げます。するとまたもう一人くらい失敗する。これで元金割れです。借金が借金を呼び、誰かと目が合うと借金とりでは、とまたまた自信を失います。そこで乾坤一擲《けんこんいつてき》、競馬にあり金全額を賭《か》ける。それが、大当たり〜! なら幸せですが、ハズレならどん底です。数学の授業の「確率」を思い出してください。大当たり〜! になる確率とハズレになる確率のどちらが高いか。ですから逆チヅコ型人間とは、危険が大好きな人なのかもしれません。危険が好きなのだからそれで幸せなのかもね。よって三タイプともみんな幸せ。さあ、笑って、笑って、笑ってキャンディ、っと。 誰もがかかる「せんせい病」って? ♪淡い初恋消えた日は 雨がしとしと降っていた♪  森昌子が中学生歌手としてデビューした『せんせい』が大ヒットしたのもうなずける。「せんせい病」にかかる女生徒というのは『赤毛のアン』と『風の道しるべ』を読む人数くらい、たくさんいるのだから。  中・高校生のころというのは、男子生徒がバカに見える。たとえば、 ♪淡い初恋♪  などという歌詞をきいたところで、 「えー? 淡い、ってどういうかんじ?」  くらいにしか男子生徒にはひびかない。 ♪慕いつづけた♪  にいたっては、 「死体がつづく?」  くらいの反応しか、できない。  中・高校生の年齢では、ボキャブラリーが決定的に女子より男子は劣っているのである。  なぜかというと、男子のほうが女子より精神成熟が遅いからである。つまり、コドモ、なので、コドモに対して女子は異性感情など抱けない。  そこで若い男の先生がかっこうの対象となる。 「教師と女生徒」  このカップリングは、一見、 「不道徳で不釣り合い」  とされる。『中2コース』などでは、先生を好きだという女生徒の悩み相談に決まって「もっと自然な中学生らしいおつきあいが、あなたにはきっと似合うはずです」  と答えてある。  こりゃ、嘘《うそ》だ。相談主の女生徒に似合う、自然なおつきあい、のできる相手は、実は先生なのである。  若い男の先生など、その精神年齢は高校生である。精神発育の遅い先生となると中学生の人もいる。女子中学生とぴったりの精神年齢ではないか。  この相談主が同級生の男子中学生とおつきあいをすればどうなるか。ボキャブラリーはあわない。趣味はあわない。男子中学生はガツガツと欠食児童のようにセックスしようとする。やめてよ、と言っても、がががっと押さえ込んで避妊も考えず彼女を妊娠させる。これが幸せだろうか。その点、先生は彼女と同じレベルのボキャブラリーだし、セックスもそこそこに落ちついているだろうし、避妊も考えてくれるだろう。なにせ、相手は自分の教え子だから世間体というものがある。男の責任感など期待しないが、世間体には男は弱いから、避妊はとにかく考えるだろう。先生とおつきあいしたほうが、相談主の女生徒は、自然な中学生らしいおつきあいができると思う。  女生徒と若い先生は、不道徳で不釣り合いではなくて、ぴったりのカップリングなのである。  この真理をなぜか世間は忘れがちなのはどうしたことだろう。そのために相談主の女生徒のような人は、ちっとも不自然でまちがったことをしていないにもかかわらず、 ♪だれにも言えないかなしみに 胸をいため♪  るようなハメになってしまう。 『中2コース』に投稿しなくても、ちょっと年長のものがすぐ、 「わかるわよ。あなたぐらいの年ごろにはね、よくあることなの。あこがれを恋だと錯覚してしまうのね」  などと、大まちがいなワンパターン説教をする。  あこがれじゃないってば。恋に恋してるんじゃないってば。先生を好きになるほうが「自然」なんだってば。マヌケだねえ。  このマヌケさを排除して出来上がったドラマがTBSの『高校教師』である。  あのドラマの主人公の桜井幸子が、もし、はつらつ元気少女で、真田広之先生にサワヤカに片思いしていたとしたら、さぞやおもしろくないドラマだったことだろう。  なんてったって、先生には桜井さんくらいの女生徒で、ちょうど釣り合いがとれるんである。 「危険でアブノーマルな恋」  よく、こんなふうにあのドラマは評されたが、ちがうんだってば。あのドラマの二人のほうが自然なんだってば。  もちろん、あれはドラマだから、あのとおりの設定と事情を抱えている人は少ないかもしれない。しかし、 「世の中の人の半分にはみな複雑で異様な事情がある」  というのが、それこそ「自然」で「ふつう」なことではないか。  事情のある人々には、その人々の数のぶんだけ、それぞれにものすごく複雑な事情があるのだ。あとの半分の、ない人、は、どの人もみなよく似た生活をしているが。  トレンディ・ドラマは今まであまりにも、あとの半分の人々にばかりスポットを当て、彼らにばかりいい服やいい車を与えたから、私はたいへん自然に『高校教師』を見ることができてよかった。  ただし、唯一の欠点というか、同意しかねる点は、  体育教師がかっこよすぎる、  ことであったな。  赤井英和のようなかっこいい体育教師がいるとは、とうていとうてい想像できない。せっかく他が「自然」なのに、あのキャスティングだけが「不自然」なのは残念だった。  先生って職業は、はっきり言うけど、ろくな人間がいない。とりわけ、もっともろくなのがいないのが体育教師である。……と、断定すると差別発言になってしまうので、私の習った先生に限っていえば、先生にはろくな方が少なくて、とりわけ体育の先生にはろくな方がいらっしゃいませんでした。  教え子と結婚(卒業後すぐ)するのは決まって体育教師。えこひいきがはげしいのも決まって体育教師。そうか、やっぱり先生と女生徒は精神年齢がぴったりなんだ。  暗闇《くらやみ》でいきなり抱きつかれるという痴漢行為にあったことが、私にもあったけど、犯人は数学の先生だったしね。 乙女心のいやらしさ 「いい気な歌よね!」  と、多くの人が言う『けんかをやめて』。歌っていたのは河合奈保子。おぼえていない人のために歌詞を記す。 ♪けんかをやめて 二人をとめて  私のために争わないで もうこれ以上  ちがうタイプの人を 好きになってしまう  揺れる乙女心 よくあるでしょう  だけどどちらとも 少し距離をおいて  うまくやってゆける 自信があったの  ごめんなさいね 私のせいよ  二人の心 もてあそんで  ちょっぴり たのしんでたの  思わせぶりな態度で だから  けんかをやめて 二人をとめて  私のために争わないで もうこれ以上  ボーイフレンドの数 競う仲間たちに  自慢したかったの ただそれだけなの  いつか本当の愛 わかる日がくるまで  そっとしておいてね 大人になるから♪  いやはやまったく。 ♪けんかをやめて 私のために争わないで♪  とは、まったく、じつに、 「いやはや、いい気なもんだ」  と、思わせずにはおかない歌である。  この『けんかをやめて』と『オリビアを聴きながら』は、 「いい気になってる歌の日本一コンクール」に出場して決勝戦を交える二曲であろう。 ♪ちがうタイプの人を好きになって♪  男ふたりをけんかさせておきながら、 ♪そっとしておいてね♪  とは、あつかましいにもホドがある。 ♪揺れる乙女心 よくあるでしょう♪  とは、 「てめえ、甘えるな」  と、往復ビンタをくらっても文句は言えまい。  だいたい、♪二人の心をもてあそんで♪いるような女の、 「どこが乙女じゃ!!」  と、髪の毛をひっつかまれてスカートをまくりあげられて電気アンマをされること必定である。  なにが、 ♪ちょっぴりたのしんでたの♪  だ。  ちょっぴり。  すこし、じゃなくて、ちょっぴり、だって。どことなく、じゃなくて、ちょっぴり、だって。  ちょっぴり。  なんとも憎たらしい言い方である。 「メルヘンぶりやがって」  と、鼻の穴に指入れられても当然である。  この歌に怒る人々の気持ちは痛いほどお察しできる。できるんだけれど、私はこの歌がそんなに嫌いではない。  それどころか、このたび原稿を書くにあたって、なんどもくりかえし読むうち、好きになってきたくらいである。  なぜか?  謎《なぞ》に満ちた歌だからだ。  竹内まりやが、なにを思ってどういう気分でこの歌詞を作ったのだろうと推理しはじめると、謎が謎を呼ぶのである。  竹内まりやといえば『不思議なピーチパイ』という名曲を作った人である。 ♪恋ははじめてじゃないけれど  恋はそのたびちがう私を見せてくれる♪  さりげない日常感覚のことばに、さりげない繊細さのあるいい歌だ。ほかにも『元気を出して』『駅』等のいい歌を作った。この竹内まりやが、 ♪けんかをやめて〜♪  とは、なにか相当疲れていたのか?  それとも表面には出ていない、奥深い意味が『けんかをやめて』には隠されているのだろうか? 「ええ、相当疲れていたんです、そのとき。それに『不思議なピーチパイ』は私の作詞ではありません。安井かずみさんですわ」  というのが真相であるのはつまらないから(作詞者が安井かずみであることが、つまらないというのではなく)、やはり、ここは、 「奥深い意味が隠されている」  というほうを、選択したい。  では、奥深い意味とはなにか? ♪けんかをやめて〜 二人をとめて〜♪  ほんとに、いい気になってるこの歌詞。傲慢《ごうまん》でうぬぼれていて、ズルくて、コソクで、薄汚い。 「なるほど!」  私は手を打った。  これは、少女の真実の姿である。 「少女とは、いい気になっている動物」  なのだと、竹内まりやは言いたかったのではないか。  こんなことを言うと読者の反感を買いまくるかもしれないが、私自身もかつて少女であったので、あえて言う。 「少女とは、この世でもっともズルくてうぬぼれているあぶらっこい存在である」  と。  つくづくこう思うのだ。読者のあなたの少女時代はそうでなかったとしても、少なくとも私は少女時代、こうであった。  11歳から15歳くらいまでのあたり、私は人生でもっとも不潔だった。  客観性というものをいちじるしく欠き、主観の強さに茶番劇な自己陶酔をし、男の同級生、男の先生、男のスーパーの店員、男の文房具販売員、等々、を、過剰に意識して、女の先生、女のスーパーの店員、女の文房具販売員を敵視する。 「どうしたら、自分はかわいく見えるか」  このことばかりに頭はいっぱいで、そのくせ本を読んではいっぱしの知性派をきどる。ああ、思い出しても恥ずかしい。不潔だった。不潔総本山だった。  そうだ。  この歌のとおりだ。ボーイフレンドがほしかったし、できるだけいっぱいほしかったし、二人の男から好きですと言われたら二人ともにいい顔をしていた。  この歌詞のようなことが実際に身の上にあったとしたら、あきらかに私は、 「うっふん、気分いいわ」  と、思っていたと思う。  そして、この歌を、 「ふん、いい気なものね」  と、感じるのは、そっくりそのまま、 「そりゃあ、こういうシチュェーションだったら気分いいでしょうよ」  と、わかるからにほかならない。 「勉強ができなくてブスな私はいつもハッピー」  などと歌われたら、 「なんで? ヘンなの」  と、感じるのだから。  この歌は少女の真実を暴いた歌だったわけである。  しかし、この歌を河合奈保子に歌わせたところが絶妙である。  こんな「いい気になっている」歌を、いい気になっているとも思われない歌唱力で、意味がわかっているのかいないのか、ぽーっとした顔して河合奈保子が歌うところが、なんともおかしい。  多くの人も彼女が歌ったから笑ってすませてしまったのではないだろうか。  これをもし南美希子(キャスター)が歌ったとしたら、ぜったいみんな笑わなかっただろう。  男二人に南美希子の三人が食事をして、男二人がたまたま消費税のあり方について口論しはじめたとしても、 ♪私のために争わないで〜♪  って、思うような(かんじのする)人だからね、彼女は。私としては、彼女のそんなところが大好きだけど。本当に。お茶にごし的なフォローではなくて、本当に。彼女のストレートさは、清純だと私は思う。 「あなたしか見えない」タイプが一番強い  出ました。おやじ殺し、テレサ・テン。尽くす女、耐える女を歌わせたら台湾人だが日本一。  ヒット曲数あるなかのひとつ、『時の流れに身をまかせ』。 「こんな女はいいよなあ」  有線でかかると、たいていのサラリーマン族がうっとりする。どうもテレサ・テンのような愛人を囲うような、まったく別の人生をふと空想しているらしい。 ♪もしもあなたと逢えずにいたら 私は何をしてたでしょうか  平凡だけど誰かを愛し 普通の暮らししてたでしょうか  時の流れに 身をまかせ  あなたの色に 染められ  一度の人生それさえ 捨てることもかまわない  だからお願い そばに置いてね  いまはあなたしか 愛せない♪  私はこの歌を聞くたびに、この歌の主人公の身元について首をかしげていました。  この人はいったい、何をしている人なのでしょうか? ♪あなた♪なる人物に♪もしも逢えず♪じまいだったら、現在とはちがう状態であっただろうと冒頭で述べていらっしゃいます。  現在とはまったくちがった状態が、 ♪平凡♪で、 ♪普通♪で、  あるわけですから、よって、現在の暮らしは、  非凡で、  普通ではない、  わけですよね。いったい何をしているんでしょうか?  非凡で普通ではない暮らしとは? ざらにある職業ではないですね。  となると、裁判官、医師、外交官、などが考えられます。司法試験、医師試験、外交官試験はすごく難しいのでざらには合格しません。  あとは芸術関係。ミュージシャンなら数の少ないシンバル専門奏者、大正琴演奏者、オカリナ奏者。あと、サラダ油で絵を描く画家、醤油《しようゆ》を使って字を書く書道家、水中バレリーナなど。 「オカリナ奏者です」とか、 「画家です」とか、 「バレリーナです」とか、  自称するのは簡単ですが、ほんとうにそれで食って生活していけるとなると難しい。ざらにはいません。  歌詞からすると、 ♪あなたの胸によりそい♪ ♪お願い そばに置いてね♪  などと、たいへん他人にすがった言いぶりをしています。おおむね芸術家というのは我が強いので、芸術で自活できていればこのように、すがった言いぶりはしないでしょう。  となると、難関国家試験合格関係の職業のほうでしょう。とりあえず裁判官にしておきましょう。♪わたし♪と、自分のことを言っているし、女性歌手が歌ってもいるので、女性裁判官ですね。  女性裁判官で趣味でオカリナを吹いている人というところでしょうか。  この人が普通の暮らしをしていないわけです。  普通ではない暮らしとは何でしょう? 麻薬販売、売春斡旋《あつせん》、テレカ偽造、放火、ゲームセンターあらし、なんかは普通じゃありません。いや、もっと、普通からかけはなれた暮らしといや、ゴルゴ13みたいな殺し屋。 ♪いのちさえもいらないわ♪  というくだりは殺し屋ならではの迫力が、そういやあります。  オカリナを趣味としていて、裁判官で、正体は殺し屋の女性となれば、これはもう、そうそうざらにはいません。非凡です。普通の暮らしはできないでしょう。 ♪あなた♪  なる人物は、この女性にそういう道を歩ませるように仕向けたのです。  では、この♪あなた♪は何者か? 女性が裁判官をしているところから、  大学の法学部の教授、  と、推察しました。この教授が彼女を教え、彼女は、 ♪あなたに嫌われたなら 明日という日なくしてしまうわ♪  と思うまでに彼を慕い、一所懸命に勉強しました。そして司法試験に合格して、その後、女性裁判官になったのです。  しかし彼女と教授は、師弟関係を超えて愛し合ってしまった。  ところが、この許されぬ関係が奥さんにバレて、奥さんが、 「きいっ! なによっ。おわびに20カラットのダイヤとミンクの毛皮を買ってちょうだいっ」  と、要求しました。  奥さんはこの教授の、そのまた恩師の娘で、世間知らずのお嬢さん育ち。自分の夫の収入など無視してヒステリックに要求したのです。  恩師の娘をめとって教授の座につかせてもらった手前、教授は奥さんには頭が上がりません。そこで、軽はずみにサラ金に手を出し、その返済にあたふた。 「金返せ! このドロボウ教授」  などと大学の研究室のドアに貼《は》り紙をされてあせってしまいます。そこで、 ♪お願いそばに置いてね 思い出だけじゃ生きてゆけない♪  という教え子に、教授は金をせびる。愛する先生のために彼女はなんとかしようとした。  てっとりばやい金もうけ手段として売春を思いついたりもしましたが、なんといっても彼女は、 ♪あなたしか愛せない♪  人なので、教授以外の男とセックスするなどもってのほか。そこで殺し屋になったのです。 「ぼくのためにすまないね……」  そっとベッドでささやく教授に、彼女は、 ♪あなたの胸によりそい〜♪  ながら言います。 ♪一度の人生それさえ捨てることもかまわない♪  と。  これはなんと不幸な人生でしょうか。ではなぜ彼女がこんな不幸をしょってしまったかというと、 ♪時の流れに身をまかせ♪ ♪あなたの色に染められ♪  るような生き方をするからです。あまりにも他力本願すぎる。  自分の人生は自分の足で歩き、自分の手で自分を染めていかないとたいへんなことになりますよ、と教え諭した歌です。  さらに言えば、この歌のヒロインのような女性は、一見、弱々しそうですが、おそらくどんな男に対しても、 ♪あなたしか見えないの♪  と、言うでしょう。そういう行為ができるということは、要するに、とても強いんですね。だまされやすい男性を戒め、女性にはさらに強くなるようにとはげました、究極のフェミニズム歌謡が『時の流れに身をまかせ』なのでした。 男と女が、突然フランクな言葉遣いになる理由  ピンク・レディーの黄金時代は、そのコスチュームとふりつけに目を奪われ、おそらくみんな気づいていないのではないだろうか。『カルメン'77』という歌がすごい歌詞だということに。 ♪カルメン カルメン  私の名前はカルメンです  ああ もちろんあだなに決まってます  バラの花口にして踊っている イメージがあるというのです  まだまだむじゃきなカルメンです  ああ 純情すぎるといわれてます  そのうち火のような女になり ふらふらさせるつもりです  これで決まりです これしかないのです  ああああ あなたをきっと  とりこにしてみます  ラララ カルメン カルメン  きっと きっと好きにさせます  カルメン カルメン  そうです私はカルメンです  ああ お色気ありそでなさそうです  女って突然に変わるものよ この次はきっとしびれます  ちかごろ噂《うわさ》はカルメンです  ああ 危険な女といわれてます  世の中もだんだんに分かる人が ふえてきたように思えます♪  おもしろい部分を抜粋するつもりだったが全部おもしろいので、一挙掲載になってしまった。  阿久悠+都倉俊一のコンビによるヒット曲としては、 ♪ウララ ウララ♪  の『狙《ねら》い撃《う》ち』も、かなりなもんであったけれど、しかし、あの歌は、 ♪ウララ ウララ♪  の部分以外はノーマルである。  一人の美貌《びぼう》に恵まれた女が、 「私は貧乏な家に生まれた。貧乏なんかはいや。この美貌を武器にして成り上がってやるわ!」  と決意している内容で、このモチーフは古今東西、映画や小説にひっきりなしに使われてきた。さしずめマドンナの自伝なども、このモチーフである。  しかし、同じ阿久悠+都倉俊一コンビによるこの『カルメン'77』のヒロインはいったいどういう女だろうか? ♪私の名前はカルメンでっす!♪  と、カルメンなんていう名前を、です・ます体で名乗ってくるところからしておかしいのに、 ♪もちろん あだなに決まってまっす♪  と、名乗るなりきびすを返している。  きびすを返されたほうが、 「ちょ、ちょっと待ってくださいよー」  と追いかけたところ、彼女は自分のイメージは、バラの花を口にして踊っている感じであると言う。 「バラの花を口にくわえて踊っている女?」  そんな女、どんな女だろう?  ちがう歌だが、 ♪あ〜 あの子はダンサーか ダンサーか、  気にかかる あ〜の指輪♪  と『東京ラプソディー』の歌詞が頭に浮かぶ。疑問を正さんとして、 「あの、失礼ですが、あなたはダンサーでいらっしゃいますか?」  おずおずと、こちらが尋ねようとしても、 ♪これできまりです これしかないのです♪  と、まるっきり頭ごなしだ。  そのうえ、 ♪そうです 私はカルメンでっす!♪  とまた、です・ます体で名乗る。だって、さっき「あだな」だって言ったじゃないかー。 「あ、あのう、カルメンさん……」  こちらは困ってしまって小声になる。すると急に、 ♪ああ♪  などと、腰をくねらせてきて、目のやりばに困っていると、次にまた急に、 ♪お色気ありそでなさそうでっす!♪  と、きびすを返される。 「色気がありそうだが実はない」でもなく、「色気がなさそうだが実はある」でもない。ありそでなさそで、本当のところはどうなのかは欠落している。 「さて、どっちだろうか?」  考えているこちらを尻目《しりめ》に自称カルメンは、 ♪女って突然に変わるものよ♪  と。これまで、です・ます体であったのに、 ♪変わるものよ♪  と、突然にフランクな話し方になっている。突然に変わるのは女ではなく、この歌詞の文体だ。 「締めの足りない水道の、  蛇口の滴は、つと光り!  土は薔薇《ばら》色、空には雲雀《ひばり》  空はきれいな四月です。  なにも訪ふことのない、  私の心は閑寂だ。」  これは、中原中也の詩集『在りし日の歌』に収録されている「閑寂」という詩である。この詩人もよく詩のとちゅうで文体が変わる。でも、カルメンの変わり方とはちがうと思う。♪女って突然に変わるものよ♪  フランクに言われれば、なるほどそうか、そうかもしれないね、そんなもんなんだろうね、って気分になっちゃうわ。なっちゃうのだ。なっちゃうのでR。なっちゃうもーん。  文体はいろいろに変えられる。  自称カルメンが急に、 「〜のよ」  と、フランクな話し方になったわけは、行間を読んで推測しなければならない。  セックスしたのであろう。  セックスしたとたん、ことばづかいがなれなれしくなったという話はよく聞く。  セックスしたカルメンも、 「〜のよ」  と、なれなれしくなってしまった。だが、 ♪まだまだむじゃき♪  だったので、男をあまり満足させられなかった。それで彼女は、 ♪この次はきっとしびれます♪  と、反省する。  しびれさせます、  ではなく、  しびれます、  と、彼女が言うところが、男の作った歌詞らしい。男のほうも「次回はしびれさせなければ」と反省しているので、結果、カルメンのセリフは「わかりました。しびれます」という日本的従順さを基本として発せられることとなる。  これが女の作詞だったりすると、 「好きなあなたの腕の中でもちがう男のことを考えちゃうからね。いいこと、次はしっかりしびれさせるのよ」  と、カルメンをエーゲ海に旅行させて男を脅したりする。  でもカルメンは日本にいたまま、へんな発言をする。 ♪危険な女といわれてまっす!♪  だって。  自分で自分のことを危険だなどと言うのは男女問わず、へんなやつだ。  そして、いよいよすごい発言が飛びだす。 ♪世の中もだんだんに分かる人がふえてきたように思えます♪  こりゃあ、あーた、すごいよ。  自分がへんなのに、世の中もだんだんに分かる人が増えてきたように思うんである。すごい。これはやっぱり自他共に認めてよい、 ♪危険な女♪  なのかもしれない。  なんというすごい歌だったのだ。知らなかった。一時間くらい歌詞を読んでいても飽きない歌だ。  なんというすごい、おもしろい歌だ。私は好きだ、この歌。 亭主関白にあこがれるシアワセ  四谷怪談というのは、もともとは赤穂《あこう》浪士の討ち入りの話もからんだ、もっと長い話なのだが、今では、お岩さまと伊《い》右衛門《えもん》どのの、例《レイ》の霊《レイ》のあの話のみを指す場合が多い。  貧乏浪人の伊右衛門どのは、お金持ちの商家の娘と結婚するために、邪魔になった正妻、お岩さまを毒殺。お岩さまは、ひゅうどろどろと化けて出てきて、そこで有名なセリフとなる。 「伊右衛門どの〜、なんの罪、咎《とが》もないわたしを、ようもようもこのようなしうちに〜」  毒薬でただれた顔と髪。そして怨念《おんねん》とかなしみに光る眼。  あの眼。  あの、お岩さまの眼とそっくりな眼を、私はまぢかに見たことが、これまでの人生で一度だけあった。  それは……。  いや、この話をする前に、まず『関白宣言』の歌詞を思い出してもらおう。 ♪お前を嫁にもらう前に  言っておきたいことがある  めしは上手く作れ  いつもきれいでいろ  できる範囲でかまわないから♪  いつごろだっただろうか。よく売れた歌だった。まだあのころは、さだまさしの髪も豊かだったような。  今でも、結婚式の二次会などでよく歌われるそうだが、メロディがほとんどなくて、全編これ語りの歌である。そして、全編これ「よう言うわ」の内容である。  なものだから、ヒット当時はしばしば女性から批判を受けた。 ♪俺《おれ》より先に寝てはいけない 俺より後に起きてもいけない  俺より先に死んではいけない♪  ここらあたりに怒る女性が多かったようだが、ここはべつに怒ることもないように思う。いつもいっしょにいたいという愛のささやきを、ちょっとシャイに言い方をかえてみた詩的レトリックなのだろうし。  ここの箇所で怒る人というのは、ロシア民謡『一週間』の、 ♪月曜日はお風呂をたいて火曜日はお風呂に入り♪  って箇所でも、 「冷めてしまう」  と、怒る人なのではないかしら。私の中学時代のクラスメイトにも音楽の時間に怒っている人がいた。友川良子ちゃんと墨田清美ちゃん。二人とも数学が得意だったので詩情が欠落していたのかも。 「詩情で受け取ってほしい」  と、さだまさしだって『関白宣言』について、そう思っていると思う。 「決して、このままってわけではありません。命令しているのではないのです。こういうくらいの気持ちで、って感じを歌ったのです」と、思っていると思う。  思うけど、歌詞を追っていくと———、 ♪めしは上手く作れ♪  おまえも作らんか、料理くらい。 ♪いつもきれいでいろ♪  おまえも髪ふさふさでいろ。できるかぎりでいいから。 ♪仕事もできない男に家庭を守れるはずなどない♪  女も満足させられない男に仕事ができるか。 ♪それ以外は口出しせず黙って俺についてこい♪  本当だな? ぜったいミスしないんだな? 一筆書いて印鑑押しといてもらおうか。 ♪お前の親と俺の親とどちらも同じだ 大切に♪  てめえ、こんなこと言って、その舌の根も乾かぬうちに、 ♪お前は俺のところへ家を捨ててくる 帰る場所はないと思え♪  なんて矛盾したこと言っとるじゃねえか。おう、上等よ。 ♪ 姑《しゆうと》 小姑かしこくこなせ 愛すればいい♪  母の愛を他人にも求めるな、このマザコン。 ♪俺は浮気はしない たぶんしないと思う しないんじゃないかな♪  妻も浮気はしない。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ、おまえこそ。 ♪幸福《しあわせ》は二人で育てるもの どちらかが苦労してつくろうものではない♪  苦労してつくろってもらってる人にかぎっていつもこう言う。 ♪忘れてくれるな 俺の愛する女は生涯お前一人♪  言い訳〜!  ———と、まあ、ついつい、いちいち反論したくなる歌でもあるわけだ。  そして、いちいち反論できてしまうスキのあるところがこの歌がヒットしたゆえんだろう。  つまり、 「なんてステキで男らしい」  と、大勢の若い女の子は感じたわけよ。  なぜなら、ヒットした昭和50年代、日本は経済大国。平和国家。同級生の男ときたら、そろいもそろってヤワなのばかり。  そんな日常において、この歌程度の「命令」は、ちょうどいいくらいにセクシーなのである。  さだまさしの植物的な風貌《ふうぼう》も効果をあげただろう。もし彼が胸毛むんむん、上腕に錨《いかり》の刺青《いれずみ》をしたニコラス・ケイジのような風貌をしていて、それで、 「俺より先にイッてはいけない。俺より後にイッてもいけない。いつも挑発的でいろ、ベイビー。狂おしく嫉妬《しつと》してくれ、俺は浮気はする」  などと歌ったら、あまりヒットしなかっただろうし、結婚式の二次会で歌いつがれることもなかった気がする。  私自身は、この歌をはじめて聞いたとき、右の耳から左の耳へ、であった。あまりインパクトがなかった。結婚へのあこがれがまったく欠如した女子高校生だったからかもしれない。  ただ、この歌がラジオだかTVだかで流れているのを、ふと聞いた私の母親が、ものすごい反応を示した。 「ようも、ようも、ようも勝手なことを……」  そのときの母の眼。  まさしく、四谷怪談のお岩さまの眼であった。  母親は大正12年生まれである。子供時代も少女時代も娘時代も、すべてを軍国主義国家の規律に捧《ささ》げた世代である。さらに、都会ではなく田舎に生まれ、田舎で「嫁」になった人である。  田舎には現在でさえも暗い因習と掟《おきて》がはびこっている。そういう土地での「嫁」に課せられる重圧がいかほどのものであったか、世代はちがってもやはり田舎に生まれ育った私にも推量することはでき、彼女のお岩さまのような怨《うら》みと怒りの眼を前にして、ひとこともことばが出なかった。 ♪俺が愛する女は生涯お前一人♪  せめて嘘《うそ》でも言い訳でも、こんなことを言われるようなことは、母親のような世代の、母親のような境遇の女性には、  それこそ生涯ない、  のである。 『関白宣言』を聞いて、 「亭主関白っぽいのって、けっこうステキ」  と、感じられることは、とても幸福な時代なのかもしれません。 恋の奴隷になってみたい  原田知世と山田邦子は似ている。東幹久と後藤久美子は似ている。ハーディング選手(蹴《け》ったほう)と高木美也子(CNN・キャスター)は似ている。桐島かれんと新沼謙治は似ている。辺見えみりと瀬川瑛子、武蔵丸と金城武も似ている。パンナコッタとイヤナコッタも似ている。  そういうわけで、意外なそっくりさんとして、私は発見した。  奥村チヨと裕木奈江は似ている。 『恋の奴隷《どれい》』のリバイバル・ヒットで、最近、よく奥村チヨをTVや雑誌で見かける。  すると、現在の奥村チヨも出るけれど、昔の奥村チヨのVTRや写真も出る。すごく裕木奈江の顔に似ている。 「コケティッシュ」 「マゾ顔」 「愛人顔」 「おじさま殺し」  これらは若いころの奥村チヨについたキャッチ・コピーなのだそうである。キャッチ・コピーも裕木奈江に似ている。  こうしたイメージの人が、 ♪悪いときはどうぞぶってね あなた好みの あなた好みの女にな〜り〜たい♪  と、歌ったものだから、そりゃあウケたことだろう。  さすがにオリジナル・ヒット当時は私もガキだったので、あまり記憶がないけれど、今は育って老け込んだのだろうか、なんだか最近、 「むかしの歌の歌詞は情緒があったよなあ」  と、思うことが多い。  その歌詞の内容に同調するという意味ではなくて、日本語の持つ情感を、もっとフルに活《い》かしていたように思われてならないのだ。 ♪やめて 愛してないなら やめて くちづけするのは  わかっててもあなたに会うと いやと言えないダメな私ね♪  これは辺見マリの『経験』である。ヒットしていたとき 私は小学生だったので、 「この気持ちわかるわあ」  などとは思わない。しかし、大人の世界にはそんなこともあるのかしらね、とは思った。 「なんていやらしい歌ざんしょ!」  なんて怒ったPTA夫人もいたと聞く。しかし、PTA夫人を怒らせるほど、歌詞が伝わったのだ。  日本語、ことば、語句のリズム、音韻、そういったものが、もっと力を持っていたというか、機能していたというか、要するに私はそれがなつかしいわけである。現代の歌の歌詞がよくないというのではない。現代の歌の多くは、ことばや音韻よりも、メロディとビートのノリで聞かせてしまう。ちょっとさびしい。 ♪モーニングムーン 夜にはぐれて 朝焼けのベランダでとまどっている♪  光景も浮かぶし、曲もいい。でも、その曲のノリで光景をも処理されていて、日本語の情感力は発揮されていない。むろん、現代調は現代調でいいのだけれど。  だから、今、女性に嫌われている女�1裕木奈江だが、もしかしたら、彼女が中年族に支持されるのは、ノスタルジーの要素もかなりあるのではないかと、ふと思った。 ♪あなただけに言われたいの 可愛《かわい》い奴《やつ》と♪  コケティシュでマゾ顔で愛人顔で奥村チヨが歌った、 「ああ、あの時代はよかったよなあ」  というノスタルジー。 「男女のむつごとやひめごとが、もっとゆったりとしたテンポだったよなあ」  というノスタルジー。 ♪あなたの膝《ひざ》にからみつく小犬のように♪  老若男女に聞き取れる歌詞と旋律で歌う奥村チヨの顔と、奥村チヨの時代をなつかしがる気分もあって、おじさん族は裕木奈江にひかれるのかもしれない。  このあいだTVのバラエティ・トーク番組を見ていたら、奥村チヨの再ブームについて中年の司会者が、 ♪右と言われりゃ右向いて とても幸せ♪  の部分でうなずき、 「いまの時代、こんなこと言う女の人はいてくれませんよねえ」  と、言っていた。  やはり、ノスタルジーの要素だわい、と、私は確認したものの、 「ふふん。甘いわね、おじさん!」  とも、思った。  いまの時代でも、ほとんどの女性は、恋人から右と言われりゃ右むいて幸せを感じるのであーる! 「みなさーん、ほんとうであーる!」  ドンガバチョの口調でノスタルジックに演説したいくらいだ(注・ドンガバチョ=『ひょっこりひょうたん島』の大統領)。 ♪あなた好みの あなた好みの女にな〜り〜たい♪  と、私など、日々願っている。  しかし。 「なんでも命令して。影のようについてゆくわ。あなただけに言われたいの。かわいいやつと。悪いときはぶってね」  などと、言おうものなら、最近の男は全員といっていいほど、 「ひぇーっ、かんべんしてください。重っくるしいよお」  と、ぶるぶるふるえて逃げていく。 「ひぇーっ、ぼくはそんな統率力ありません。責任が重くて無理ですう」  と、まっさおになって逃げていく。  こうした現代男性の体質と心理をよく学習しているから、現代の女性は奥村チヨにならないよう、  注意、  しているんである。いわば、  傾向と対策、  なんである。  私など、当時子供だったとはいえ、奥村チヨ時代の片鱗《へんりん》を覚えているからして、心のかたすみで、 「どこかには強い男性もいるかも……」  と、まだまだ未練がましいため、対策にぬかりがあるけれど、もっと若い世代の女性は小さいころより、  男は弱いものである、  と、肌身にしみて教育され、成長しているから、対策は万全である。彼女たちはよく知っている。現代の男は、ひとえに、ただひとえに、  徹底的に受け身、  なのだということを。だから、口が裂けても、 ♪あなた好みの あなた好みの 女になりたい♪  なんて言わないのである。  だから、彼女たちは奥村チヨをやってしまう、いや、奥村チヨの時代をやってしまう裕木奈江を、嫌う。嫌うというより、 「あんなことしたってノスタルジーおじさん族にのみウケるだけなのに、バーカ」  と、バカにしているのでは?  傾向と対策の万全な若い女性の心得は、トモダチ感覚、これにつきる。  カジュアルなトモダチ感覚。  これの雰囲気を崩したら最後、きょうびの若い男は怖がるんだから。 「ヤッホー、元気ィ」  と、いつのまにか部屋にやってきて、いつのまにかセックスになり、いつのまにか結婚へ。このなしくずし的トモダチ感覚こそ、男をオトす基礎だ。だが、これも熟練しすぎると相原勇になるぞー。  余談。『恋の奴隷』のカラオケ・レーザーの画面はエッチだと、つとに有名だが、主演の女性は、鼻が整形だと思う。整形の鼻で枕《まくら》に顔を押しつけられたりするので、私はハラハラして(シリコンがずれないのだろうかと)しまい、エッチ画面に没頭できない。それぐらいじゃ大丈夫だと、医療関係の知人は言うのだが……。  文庫版・余談。裕木奈江、どっかへ行っちゃいましたね。長い袖《そで》で手を半分かくれるくらいにしてココアだかコーヒーだかのカップを持つのが「かわいこぶりっこして、キィーッ」って女性の反感を買いまくったものでしたが、同じような袖の中山ミポリンは女性に大人気。二人のどこがちがうか、読者の皆さんは各自お考えになってください。 ヒメノ版「小指の想い出」  奥村チヨの時代の歌は情緒があった。辺見マリの『経験』にしたって情緒があった、などと書いていて、 「そういえば、ちあきなおみの『四つのお願い』も♪よっつのお願いきいて、きいてほしいの、ひとつやさしく愛して♪って、情緒があった」  と、思い出にふけっていたら、奥村チヨの再ブームはご承知のとおり、辺見マリは蛇といっしょにヌードになるし、『四つのお願い』までリバイバルした。 「もしかしたら、私には予知能力があるのかも」  などと、すぐイイ気分になるのが凡人の浅はかさ。  そこで、浅はかに予想した、次なるリバイバルはこの歌だ。 『小指の想い出』。歌、伊東ゆかり。  オリジナル・ヒットは昭和42年、西暦1967年の大阪万博前。  ヒット曲というものは、おしなべてそうなのだが、とにかく一か所、ものすごく人間の気をひく部分がある。これを映画界用語でいうと「惹句《じやつく》」というのだそう。『小指の想い出』の惹句は、もちろん、 ♪あなたが噛《か》んだ 小指が痛い♪  このしょっぱなである。 ♪あなたが噛んだ 小指が痛い♪  とにかく頭に残るフレーズだ。  さて、この本を読んでくださっているあなた、あなたはこのフレーズの意味がわかりましたか? 私はヒットした当時、全然、わかりませんでした。  1967年というと、東京都の知事に美濃部亮吉《みのべりようきち》氏が当選し、中東戦争が勃発《ぼつぱつ》、映画『夕陽のガンマン』が公開された年。胸が大きいことを「ボイン」と言うのが流行し、小学生だった私は胸にまだブラジャーをつけていない。 ♪きのうの夜の〜 小指が痛い♪  と、学校からの帰り道、クラスのみんなとノーテンキに歌いながら、道ばたの草をひきちぎってみたり、田んぼのおたまじゃくしをすくってみたりするような小学生である。  歌詞の意味に気を向けるという行為自体をしない。  だが、道ばたで、ふと、私は首をかしげた。 「なあ、あなたが噛んだ小指が痛い、ってヘンな歌やと思わへん?」  私が問いかけると、トモコちゃんも、 「そういや、そやな。小指を噛むなんて、ヘンやなあ」  と、立ち止まる。 「なんで小指なんか噛まはんのやろ」  私とトモコちゃんが疑問を追求していると、 「ヘンなことないわ。うちもときどきするで」  フサコちゃんは言った。 「えー、ほんま?」 「ほんまや。爪切《つめき》りを取りに行くのがめんどくさいとき、つい噛んでしまう」  フサコちゃんは、私とトモコちゃん以上に歌詞に気をとめていない小学生だった。 「フサコちゃん、それはちがうと思うわ。爪を噛んだなんて言うてはらへんで。小指を噛んだ、て言うてはるんや」 「あ、そか。そやったら……そら、ヘンやなあ」  フサコちゃんも自分のまちがいを認め、三人の小学生は歌詞の解釈をはじめた。 「だいたいやな、自分で自分の小指を噛むんとちがうんやで」 「そうや。〈あなた〉が噛まはったんやもんな」 「その〈あなた〉っちゅうのんは、男の人やろな」 「うん、それはそうやと思う。歌のかんじからして、その……デ、デートの歌みたいやもん」  トモコちゃんが「デート」などという語を出したので、フサコちゃんも私も顔を赤くした。  むかしの、田舎の小学生にとっては「デート」という語すら、なにやらエッチな、キワドイことばだった。 「そやけど、なんでデートのときに伊東ゆかりの小指を男の人が噛まはらなあかんの?」「うーん……」  三人で腕組をして考えつづけたのちに、 「わかった。伊東ゆかりは男の人との約束をやぶらはったんや」  新解釈をうちたてるトモコちゃん。  つまり、  ———伊東ゆかりは恋人と何らかの約束をした。そのときに指切りげんまんをした。それなのにすぐにその約束をやぶってしまったので、恋人はちょっとプンプンして思わず伊東ゆかりの、げんまんをした小指を噛んでしまった———  という解釈であった。 「そうかなあ……」  三人とも、全然、すっきりしなかったが、小学生ゆえ、もう考えることに飽きてしまい、 「きっと、そうや。それで伊東ゆかりはひとりになって反省してはるんや」  ということで結論づけて終わりにした。  小学生だったなあ、と、つくづく思う。  無邪気そのもの、とは決して言わない。三人とも、この歌にインビなムードがただよっていることに気づいていたのだ。  とくに、私は頭だけはマセガキだったので、伊東ゆかりが恋人に肩を抱かれながら夜の街を歩いている光景を想像したり、トモコちゃんとフサコちゃんの前では黙っていたものの、伊東ゆかりと恋人がベッドのある個室にいる光景も、漠然と想像していた。  ふりかえれば、私の推理はかなりいいセンまでいっていたわけだ。  しかし「噛む」という愛撫《あいぶ》技術もあるのだということに、まったくまったく、まったく気づかなかったところが、 「やっぱ、しょせんは小学生であった」  と、つくづく思うしだいである。  めでたく予想が当たってリバイバル・ヒットしたら近所の小学生にどういう意味だと思うか尋ねてみるつもりだ。 *大どんでん返し*  この原稿は雑誌『mc Sister』に掲載された。イラストはみうらじゅんさん。原稿を渡してから、しばらくしたのちに、できあがった雑誌でイラストを見ることになる。  みうらさんのイラストは、ちょこちょこっと文章が入っているのが特徴。そのときのイラストにも入っていた。そのひとことを読んで、私は、がっくりと床に膝《ひざ》をついた。そのひとこととは、 「足の小指だったのかもよ」  である。がーん! 眼から鱗《うろこ》がおちるとはこのことだった。気づかなかった。私はこの年になるまで、まったく気づかなかった。なんと私の性体験は極貧なのだろう。 不倫の恋におちいる心理 「リー、タッチ、ミー、フリー」  と言っても、 「ニィー、ニッチ、ニィー、ニー」  と聞こえる鼻声の郷ひろみさん。大人の歌手としてのヒットは『W《ダブル》ブッキング』。 ♪不倫したい きみとならば �愛してる�そのことに嘘《うそ》はない  今夜きみといたいのさ  裏切りたい きみとならば  罪だとわかっていても…♪  って、有線とかカラオケ・スナックで頻発のやつ。 ♪愛してはいけない 二番目がいやなら  綱渡りみたいな許されぬ関係  見つめあう瞳に情熱の炎は  めらめらと燃え上がり  モラルじゃ消せやしない♪  というような歌詞で、ドリカムの『週に1度の恋人』とコンセプトはいっしょ。結婚している場合は不倫と呼ばれ、結婚していない場合はセカンドと呼ばれる恋愛模様を描いた内容である。  ドリカムはボーカルの声の魅力でもたせるが、秋元康は歌詞のテクニックが数段上。詩とはちがう。あくまでも歌詞。あくまでも歌謡曲であることの魅力を発揮したテクニックはみごとである。 ♪愛してはいけない 二番目がいやなら♪  いきなりコレだ。  うまいなあ。秋元康。作詞学校を経営しているだけあって、さすがのうまさ。おみそれしました。  ドリカムや槇原、KANの歌詞にみられる、ペンションの落書きノート的・駅の伝言板的な作詞法でいくと、 「二番目っていやだから、好きだなんて言うのはまよっちゃうけど」  みたいにぐだぐだモタつくところを、 ♪愛してはいけない♪  と、もうハナから禁止令だ。  ハナから禁止令を出しておいて、 ♪二番目がいやなら♪  と、倒置法で自己保身してくるんだから、もう出だしのひとことで、  男のズルさ、  を主張している。  なんていうぬかりのない手段。さすがは商品に手を出した(商品=おニャン子=高井麻巳子)だけのことはある。おみそれしました。  この出だしを宣言しておけば、後々にどうメンドウなことになっても、 「いいかい。ぼくは最初に�使用上のご注意�を言ったはずだよ。二番目がいやなら愛さないでくださいと」  って言えるもんね。こいつー、賢い。  賢い�ご注意�をしたうえで、この男の言うことといったら、なんの目新しいことはありゃしない。 ♪綱渡りみたいな  許されぬ関係  出逢いは遅すぎて  見つめあう瞳に情熱の炎♪  どれもこれも、みんなすでにどっかで聞いたことがあるよなレトリック。ここだけ読んだらテレサ・テンの歌かと思っちゃうくらい。とりわけ、 ♪�愛してる�そのことに嘘はない♪  なんて、なによ、これ。  これはねえ、男はみんなそんなふうなことを思ってんのよ。  ところが、あんまり常識的すぎることを、どーどーと、 ♪�愛してる�そのことに嘘はない♪  なんて、言われたら、こんなの、こんなの、女はみんなうれしいじゃないの! くそー! ♪不倫したい♪  は、男の平凡なフレーズでも、 ♪きみとならば♪ って、またまた倒置法で、女の選別願望をうるうるに満たしてくるんだから、うまいよねえ。  感心しきり。  感心してるところに、たたみこみのセリフがまたまたまた倒置法で入る。 ♪裏切りたい きみとならば♪  だって。 「裏切る」という重いが陳腐なフレーズを「きみとならば」という、あくまでも選別意識でまとめる。こいつー、なんて色男。  これだけ言われたら、ほかの女の人はどうかは知りませんが、すくなくとも私は、ぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらぐらって倫理観は関東大震災。  そこへ、 ♪懺悔《ざんげ》してもかまわない  罪だとわかっていても♪  ですよ、あなた。  言うにことかいて、  罪!  懺悔!  ときた。こんなこと言われたら、私だったらその場でスカート脱いじゃう。  キリスト教の影響を強く受けて育った者にとって「罪」「懺悔」は、ものすごいインパクトなんです。 「私も懺悔いたします。愛欲のかぎりを尽くしませう。いっしょにゲヘナに墜《お》ちませう」って、その場でパンティ下ろすかもしれません。  けれども!  私はぜったい大丈夫。決してスカートを脱がないし、パンティは下ろしません。ゲヘナには墜ちません。  なぜなら、男はだれも私に向かってこの歌詞のようなことを言ってはこないからであります。  かくして私は、ハーブティーを飲みながら、今日もご清潔にご地味に一日をすごしましたとさ。  ところで、この歌、最後が新鮮だな。 ♪突然のくちづけ♪  は、平凡なんだけど、そういう行為を、 ♪ぼくらしくないのは突然のくちづけ♪  と、処理していることで、すごくプラトニックな面が出ている。  うーん。やっぱり秋元康さんってうまい。おみそれしました。 「別れ」でわかる、男と女のちがい  今じゃロケンローラーしているアン・ルイスがアイドルでデビューしたばかりのころにヒットした『グッド・バイ・マイ・ラブ』。アーバンないい曲。 ♪グッバイ・マイ・ラブこの街角で グッバイ・マイ・ラブ歩いてゆきましょう  あなたは右に私は左に ふりむいたら負けよ  忘れないわあなたの声 やさしいしぐさ手のぬくもり  忘れないわくちづけのとき そうよあなたの あなたの名前♪  いい曲だけどさ。ノエビア化粧品のCMでリバイバルもしてるしさ。でもさ。  これぞ!  これぞ、男の作った歌詞だ。  って、今、歌詞を読むと思う。  だから、いけないとは思わない。だからダメな歌詞だとも、まったく思わない。ただもう、一字一句が、 「まさしく男の発想!」  だと思うんである。 ♪グッバイ・マイ・ラブ♪  と、言ってるからには、このカップルは別れることになったのだろう。 ♪あなたは右に私は左に♪  なのだから、なにか別れなければならない理由があったのだろう。  ときめきがなくなってしまったのかもしれない。  価値観や考え方や嗜好《しこう》があわないと気づいたのかもしれない。  または、単純に嫌いになったのかもしれない。  はたまた、本人同士はうまく行ってたけれども、二人だけの気持ち以外のところにあるどうしようもない事情があったのかもしれない。  どのような理由があるにせよ、この女は、 「別れよう」  と、決めたのである。そんな女が、 ♪忘れないわ〜♪  とは、ぜったい! ぜったい! 思わない。まず、忘れよう、とするのが、別れにおける女の思考・行動の第一課題なのだ。  もし「忘れないわ、もう一度抱いて」と思う女がいるとしたら、それは「別れよう」とまだ決心していない段階の女である。  別れを決めた女が、 ♪も一度抱いて♪  などと、思うもんか。  そして、次の恋人ができたら、そりゃあもう、おみごとなくらい、あざやかに、  女は忘れる!  のだ。  なぜなら、生物学的に言って♂と♀の本能は、まったく逆だからである。 ●♂の本能=種族保存生産のために=できるだけ多くの畑に種をまきたい  よって、自分のまいた自分の種ができるだけたくさん実をつけてほしい。だから、後日、女に新しい恋人ができたとしても、 ♪忘れないわ くちづけのとき♪  と、自分のことを思い出していてくれると思いたいのだろうが、そうは問屋がおろさない。 ●♀の本能=種族保存生産のために=自分だけの畑を大事に守りたい  よって、できるだけ優秀な種を入手して実をつけさせたい。古い種など土中に残っていては、 「邪魔、邪魔。どいて、どいてー」  なのである。  女は、 ♪これが本当のさよならじゃないの♪  と、口では言うかもしれないが心はちがう。 ♪わたしの涙をあなたの頬《ほお》でふいている♪  と、泣くかもしれないが、涙とともにその男との関係は彼女の体外へ出ていく。そりゃあもう、すっかり、その男の存在は彼女のフロッピイからきっれーいに削除される。 ♪もちろんあなたの名前 そうよあなたの名前♪  と、妙に名前にこだわるのも男らしい感覚だ。男はセックスすると相手の女の名前を呼び捨てにしたり、おまえ、とか呼んだりして変化する場合が多い(らしい)。  だが、名前をおぼえていることは、女にとってはほとんど意味がない。名前くらい健常な脳の持ち主ならたいていおぼえている。名前を忘れるところまで忘れるとしたら、そりゃあんた、ハルシオンかなんかを常用している疑いがある。  つまり女は男の名前をおぼえていたところで、その名前がもはやただの記号にしかならないところまで忘れるのだ。 ♪ I'll never forget you ♪  ではなくて、女の真実は、 「I'll never remember you」  なのだ。  ここまでを、もし男性が読めば、 「そんな、女ってそんなに冷たいのか」  と、思うかもしれないが、そうではない。  どんな理由があるにせよ、別れはかなしい。さびしい。つらい。それは男女ともに同じである。  それより、恋愛中はつねに女のほうが肉体的にリスクを背負っていることを、男はころっと忘れていないか!!  妊娠のリスク、生理の痛み。そんな初歩的なことにすら男は気づかないではないか。  かなしく、さびしく、つらい別れのあとに、女は先述のとおり本能のちがいから、つぎなる種に備えて土中の古い種をとりのぞく作業を行わなければならない。腰をまげ、指の爪《つめ》を汚し、土中の種をとりのぞくことはハードな作業である。  そのハードな作業中に、 ♪ meet again someday ♪  とは、のんきな男のセンチメンタリズム。  のんきに「おセンチ」しているあいだに、女はそいつからもらったネックレスや時計やスカーフを捨てているのだ。涙を流さずに泣きながら。  先日、知り合いの男が離婚した。ある女と妻ある身で恋をし、許されぬ仲であるために別れた。しばらくして離婚し、これで晴れて恋した女といっしょになれると思っていたのに彼女は別の男と結婚するという。 「寝耳に水だ」  彼は嘆いていたけれど、彼女がもう彼を受け入れられないのはあたりまえである。ハードな作業をして彼を忘れたのだから。離婚するならさっさとすべきだったのだ、グズめ。というわけで、この歌のセリフ部分にある、 ♪ please, oh, please, say you'll never forget me ♪  という懇願は、 ♪男と女のあいだには深くて暗い河がある♪  ことを実感するに至った年齢の男の懇願だと思われる。  深くて暗い河があるからこそ男女は、 ♪それでもやっぱり会いたくて えんやこら 今夜も舟を漕ぐ♪  のでしょう。 『黒の舟唄』と『グッド・バイ・マイ・ラブ』はペアで聞こう。 二曲に共通のフレーズは、 「ふりかえるな」。 冷めている人間ほど恋に夢中になる  NTTのCMに使われた『あなたを・もっと・知りたくて』。 ♪ベルが鳴る〜 あなた〜の部屋で 8つまで数えて切った♪  歌っていたのは薬師丸ひろ子。まだ安全地帯の人と結婚する前。人目を気にする芸能人同士の恋愛は、もっぱら電話デートだったんでしょうか。  でも、このころ、安全地帯の人はたしか石原真理子とすったもんだ中だったのでは?  あれ、どうだったっけ? 忘れてしまった。げに、移り変わりのはげしい芸能界です。  で、この『あなたを・もっと・知りたくて』って今は、カラオケ屋さんにないんですよね。NTTのCMのころはあったのに。薬師丸ひろ子のべつの歌はちゃんとあるのに。  なんでかな?  とても残念です。名曲だと思うんですけど。  薬師丸ひろ子という女優さんに、私はあまり関心がわかないんですね。子役でデビューしたときから。これはまったく個人的な「好み」の問題であって、たしかに彼女は衰退の一途をたどっていた日本映画シーンに光をもたらした人であるし(この点、角川春樹さんだってそうだと思うんだけど。角川映画が好き嫌いはべつにして)、もたらすだけの魅力と能力を持っていたと思います。  ただ、私個人の嗜好《しこう》では、薬師丸ひろ子については、女優さんとしてより、歌手として好きなんです。  声自体に持って生まれた透明感がある。この声でセリフをしゃべると、そこがどうも私の「好み・嗜好」ではなくなるんですが、歌うといい。とってもいい。日本語の一語一語がたいせつに、ていねいに歌われる。  メロディとリズムのノリで漠然と断片的に受け入れてしまう歌が多い今日このごろ、薬師丸ひろ子の歌は、さわやかに耳に流れこんでくる。  たいへんうまい、という表現にはあてはまらないかもしれない。声量が豊かというわけでもない。でも、さわやかに歌詞を歌いかけてくる。  かわいらしい乙女チックな歌だなあ、と、彼女の声で歌われると素直に思ってしまいます。 ♪ベルが鳴る あなたの部屋で♪  いるかな、いるかな、と、どきどきしながら恋する相手の部屋に電話をかけて、どきどきしながら出てくるのを待って、いない、という事実をつきつけられるのが少し怖くて、 ♪8つまで数えて切った♪  わけです。そして、 ♪いま何してるの? いまどこにいるの♪  と、せつない思いで、 ♪髪を洗い、本を閉じて そしてあなたの写真にキスを♪  するわけです。なんともかわいいじゃありませんか、え。  恋する者の心情と行動を、奇をてらうことなく素直に綴《つづ》っている。 ♪受話器を耳に眠りこんで♪  たり、 ♪星空に逢いにきてって頼んで♪  みたりする。まったく、恋するということは、あーた、こりゃ病気のようなもんでね、13歳だろうが18歳だろうが、24だろうが34だろうが47だろうが、53だろうが、たぶん似たようなもんですわ。 「かわいいなあ」  そう思いながら、最初は聞いていたのですが、何回と聞くと、すると、この歌はふしぎな広がりを見せるのです。 ♪淋《さび》しさはこわくないけど♪  という部分。ここは「強がり」ともとれますが、すぐに、 ♪逢えないと忘れそうなの♪  と、つづくのです。会えないと忘れられそう、という心配ではなく、会えないと忘れそう、という心配って、 「ずいぶん冷めている」  と、思いませんか? もし、相手のことを好きだったら自分が忘れられることを心配するはずでしょう? 「冷めてる人間ほど恋に夢中になる」  これ、私の持論なんですね。  つまり、いつもどこか冷めているゆえに、必死で自分に暗示をかけて恋というイベントに没頭させないと他人を好きにならないと思うからです。そして、 ♪小猫を膝《ひざ》に長電話したささやきに戻りたい あー♪  というフレーズ、これ、あきらかに、  過去をふりかえって、  いますよね。そういえば、 ♪受話器を耳に眠り込んでた♪  のも、 ♪受話器を耳に眠り込んでた少女へと戻りたい あー♪  と、歴然たる過去をふりかえったフレーズです。この歌の主人公を、私はてっきり少女だと思っていたのですが、そうではないのでしょうか? もっと上の年齢の人なのかしら?  となると、 ♪離れても心はきみのそばにある そう言ったでしょ♪  というフレーズも、なんだかかなしい響きがある。そのくせ、 ♪星空に逢いに来てって頼んでも風の音だけ♪  というフレーズには、 「窓を開けて夜空を見たところで風の音だけしかしないのはよくわかっている」  という冷めた響きがある。 「この歌の主人公は、一見、乙女チックな雰囲気で暮らしているようだけど、相手の心が自分から去った事実を、本当はよく見据えているのでは?」  と、私は疑いはじめました。そうしますと、 ♪8つまで数えて♪  電話を切るのも、どことなく�無言電話�っぽくさえ感じられてくる。それでいて、なおかつ、さわやかなんですね。薬師丸ひろ子の声だから。  幾重にも幾重にも広がりを見せてくれる、『あなたを・もっと・知りたくて』。さまざまな推測が交錯しつつも、 ♪もっともっとあなたを知りたい♪ ♪もっともっとわたしを知って♪  と願う、恋愛というものの本質をさわやかに歌った名曲が、なぜカラオケにないのかを・ぜひ・知りたくて。 恋愛と教養  白木葉子さんは美人で財閥令嬢であってキョーヨーがあったので矢吹くんのことを好きになったのは、不作法で野獣のようにキョーヨーがなかったからで、矢吹くんよりキョーヨーがあったぶん力石くんが不利だったのも、キョーヨーのある女のヒトはぎとぎとしてぎらぎらしたラードみたいなセックスに憧《あこが》れてるからで、そういうセックスはきっと肉欲がどろどろで愛欲がめらめらでずぎずきしてああんもう死んじゃう、にちがいないと想像してるわけだけれどもなんでそんな想像をしてしまうかというとキョーヨーがあるからでキョーヨーがあるとああんもう死んじゃうってことができないから隠し預金がどんどんたまっていくのは当然なのを力石くんもどこかでわかっているけど今さら一度身につけたキョーヨーはなくなってはくれなくて、しかたがないからいっそもっと身につけちゃえとキョーヨーをもっともっと身につけてくると、葉子さんも自分がキョーヨーがあるから、頭にターバン巻いて笛吹いてる蛇使いが飼ってる蛇に恩を仇《あだ》で返されるようなセックスにも憧れてしまって、そういうセックスはきっと肉欲がねちねちで愛欲がちろちろでじんじんしてああんもうどうにかして、にちがいないと想像してるわけだけれども、キョーヨーがあるとああんもうどうにかしてもらえなくてどうしたらいいのかと迷っているうちに矢吹くんも力石くんもいなくなってしまってとてもかわいそうな葉子さんを尻目《しりめ》に、八百屋の紀子ちゃんはキョーヨーがないけど女だからキョーヨーのある葉子さんとおんなじで、やっぱりキョーヨーがなくて不作法で野獣のような矢吹くんとセックスしたがってたけどキョーヨーのないぶん見切りつけるのが早くて、キョーヨーもなくて野獣のようでもなくて見栄えも悪くてどこがいいのかというと家庭的なとこだけな西くんと結婚してそれなりにパワフルなセックスのときには目つぶって矢吹くんのことでも考えてればいいんだけど、西くんは葉子さんと同じ程度にかわいそうっぽいわりに、キョーヨーのないぶん紀子ちゃんがセックスのときに他の男のこと考えていることにちょっとは気づいても悩まないでいられるから、男女ともにキョーヨーは邪魔。 本書は、1994年10月に大和出版より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『愛は勝つ、もんか』平成12年1月25日初版発行